11月20日(日)「最も小さい者の意味」説教要旨

           聖句
旧約
 「しかし、ベツレヘム、エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る」  
(ミカ5:2)


  新約
 「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」  (マタイ25:40)


   キリストは、常に小さいものに目を注がれ、小さな種粒、野の花、空の小鳥、小さな子供を例にあげます。今日の聖句にも
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」
とあります。常識的に考えると、小さい者や弱い者は気の毒だから、同情をしなさいと言っていると思います。しかし「同情」なら、キリストも信仰も要りません。イエスの言葉でカラシだねは神の国の成長に、野の花は思い煩わないことに、子供は天国の似姿にたとえられて、どこにも同情の言葉はありません。また最も小さい者を「わたしの兄弟」と呼び、小さい者にした行為は、キリストにした行為と同じだと言うのです。

   その意味が何か分かるため、次ぎの例を考えて見てください。あなたが十人の署名をもって、議員さんのところへ行ったら、「十では話になりません。もっと集めてきてください」と言われるでしょう。十万、百万と増える事に、議員の関心は増し、千万の署名だったら、党が動くかも知れません。その時、あなたは知るでしょう。「ああ、政治家の問題は数なのか」と。真理の内容ではないのです。 

   
「これらの最も小さい者のひとり」
と言われ、九十九匹を野におき、迷う一匹を求めるたとえも数ではなく、その一匹に真理があるのです。「最も小さい者のひとり」は、キリストにしたのです。そこには数の大きさがないから、真理の大きさがはっきりしてくるのです。イエスが小さいから同情したのでないことは、タラントのたとえを見れば分かります。ある人には五タラント、ある人には二タラントを与えた時、一タラントの者はひねくれて、その金を地面に隠しておいた。ここでは小さい者が悪者にされています。それは一タラントの者が数にこだわったからです。

   「日本のような異教の国では、真理を語る者は、数が少ない、だから少ないことを問題にしない」という主張をする教会があります。数にこだわらないことは、少なくてもよいという意味ではありません。少ないから真理が語られているわけではありません。真理が語られる時、数が増えることは当然あるはずです。使徒行伝の時代がそうです。「最も小さな者にしたのは、空腹の時食べさせ、旅人に宿をかし、病気の時に見舞う」具体的行為です。最も小さい者のひとりするとは、安心するのでなく、それがキリストの業になるよう格闘することです。

   クリスマスが近づきます。旧約聖書は、
「しかし、ベツレヘム、エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る」
となっています。ベツレヘムは小さい者だが、イスラエルを治める者キリストが出てくるのです。したがって小さくても、真理であるイエス・キリストが出てこなくてはなりません。クリスマスとは、「小さい者から真理が出てくる出来事」です。小さくてよいのでなく、(それも数にこだわっている形態)、「小さい者から真理(イエス・キリスト)が出てくるお祝いなのです。田舎の女子青年マリヤから、キリストがお生まれになるその日なのです。私たちも小さいながら、イエス・キリストを宿すことができるのです。

   そのことは私たちに大きなことを教えます。自分には大金がない、能力もない、体力も弱い、援助者もいない、そのことを心配する必要はありません。お金や数ではありません。あなたの力でもありません。「これらの最も小さい者のひとり」が、大切なのです。神が事をなされるのは、この最も小さい者のひとりからです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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