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2011年12月25日(日)クリスマス礼拝説教「クリスマスと天文学」
説教:蓮見和男
  聖句
旧約 「しかし、ベツレヘム、エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから、わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」   (ミカ5:2)
新約 「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東のほうでその星を見たので、そのかたを拝みにきました』ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人びともみな、同様であった。そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生まれるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、『それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこう記しています。『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」  (マタイ2:1-6)
  全世界の救い主イエス・キリストを最初に拝みにきたのは、イスラエルの祭司、律法学者ではありません。東の方からきた博士たちでした。それはペルシヤ(今のイラン)から来た異邦人の天文学者でした。マタイ福音書にはローマの百人隊長の信仰が、「イスラエルの中にもこれほどの信仰を見たことがない」
とほめられます(8:10)。救い主に最も遠い人が、最初に救い主に会いに来たのです。それも何千何万キロという遠くから訪ねてきたのです。遠い人ほど救い主に近いのです。宗教は苦手だと言う人がキリストに近いのです。
  彼らは天文学者ですが、同時に占星術(星占い)に近いこともします。それは自然を見て、ただその法則を研究するだけでなく、具体的に星空を見て、その意味を考え、時代を占う預言者の一種でした。自然は神と関係あり、彼らは星空を見て、時代の兆候を読み取りました。そこに彼らは新しい時代の救い主、王の誕生を見たのです。彼らはただ天空をのぞいて解釈している学者ではありません。象牙の塔にこもった学者でなく、自分たちの読み取ったことにしたがって、行動を開始しました。その星にしたがって、エルサレムまで遠い道のりを旅してきたのです。そして王宮に来ました。王であるから王宮に生まれると思ったのは、当然でしょう。ヘロデ王は残酷な王で、民衆の心が離れて、その新しい王の方に行くことを恐れたのです。
  しかし、ここに別な学者たちがいました。それは博士たちのように異邦人でなく、れっきとしたエルサレムの律法学者たちです。聖書には精通しています。王の問いかけに対して、ただちに「生まれたのはユダヤのベツレヘムです」と正解を出しました。聖書に精通している学者が、本当に救い主を知っているかというと、そうでなく、エルサレムの学者先生は、正解をだしながら少しも動きません。
  次に異邦の博士たちは、救い主キリストを見にきただけでなく、宝物をもって捧げにきたのです。救い主から何かをいただく前に、彼らは自分のものを救い主に差し出しました。今日本でクリスマスの主役はサンタクロースです。それはセイントニコラウスという実在の人で、多くの貧しい人にプレゼントを与えました。クリスマスは与える日、捧げる日にほかなりません。それは、ここに生ける神の姿を表しています。それは「与える神」です。しかも、与えるに値しない者たちに、与える神です。
  救い主は馬小屋で生まれました。動物たちは、救い主に値しないもののように見えます。しかし、そうではありません。彼らこそ第一に救い主に近くいたのです。それは遠いペルシヤの博士たちが、近くにいるのと同じであります。また救い主に出会ったのは、当時低く見られていた野にいる羊飼いたちでした。このようにクリスマスには、救い主にふさわしくない人びと動物たちて満ち満ちています。それはここで起こっていることが人間の資格によらず、ただ神の恵みによることを明かにするためであります。人間が計画したことでなく、それは神の計画したことであることを表しています。
  異邦の博士たちは、新しく生まれる救い主を、「ユダヤ人の王」と呼びました。「王」は聖書で、支配・守護・勝利を表しています。しかもこの王は、単に政治的な王とは違います。政治的王ヘロデは、二歳以下の男の子をみな殺させました。ホロコースト全員殺戮です。これがこの世の王とこの救い主なる王との根本的違いです。この救い主なる王は、「救うために」来ました。しかし、この世の王は殺すことを、何の罪もない子供をただ自分の権力維持のために殺すのです。
  イエス・キリストの王としての存在は、霊的に救い、現実的に世界の愛の王国をもたらします。人びとを平等にし、自由にし、愛の交わりに導きます。福音書の最後にイエスの十字架のところで、その罪状書に「これはユダヤ人の王イエス」と書いてありました。つまりこの救い主なる王は、馬小屋で生まれ十字架で死なれます。最も低いところに来られ、最も低い者たちのために死にます。この世の王は、小さいものを殺します。しかし、この救い主なる王は、小さい者のためにそれを生かすために自ら死にます。天と地の違いです。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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