1月1日(日)「新しいものの始まり」説教要旨

           聖句
旧約
 「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」  
(創世記1:1-3)


  新約
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった」  (ヨハネ1:1-5)


   旧約聖書の初めに
「初めに神は天と地とを創造された」
とあり、これは明快です。しかし、次に
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」
これが天地創造の時の、地上の姿でした。「混沌として秩序がなく」虚無であった。だから「やみ」が「淵のおもてにあり」ました。この地上は秩序もなく、希望もなく、虚無的で暗闇が世界おおっていました。アウグスチヌスは言いました、「神は無から世界を造られた。しかし、愛によって造られた。それで被造物が、上に向かって行けば、神の愛に到達する。しかし、下に向かえばそこは虚無の深淵がある」と。すると神に造られた世界は、ただ良いことばかりの世界ではなく、「混沌として、秩序なく」虚無であった。天地創造は、それら混沌の宇宙に形と秩序を与えましたが、しかし、いまでもその無秩序の片鱗は残っています。パウロも、
「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり」(ローマ8:20)
と言っています。この世界だけでは、虚無であります。したがって信仰と愛に目覚めなければ、この世界の本質は、むなしいものであることが分かります。しかし、虚無にすぎない世界の上に
「神の霊が水のおもてをおおっていました」
神さまの霊があることを信じましょう。パウロも
「かつ被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの自由に入る望みが残されている」(ローマ8:21)
と言っています。 

  新約聖書では
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」
「光はやみの中に輝いている」、ここにもやみがあります。しかし、光もあります。この世界にやみもあれば光もあります。しかし、「やみは光に勝たなかった」。光だけを見る人は楽観主義者です。その人は闇を見て戸惑います。また闇だけを見る人がいます。その人は、暗い悲観主義者です。すべてが否定と暗黒に見え絶望します。

  けれども、この二つは正しくありません。光のあるところに闇があり、闇のあるところに光があるというのが、聖書の信仰です。私自身にとって最大の闇は戦争でした。東京空襲の時、すべてが灰になりました。しかし、その時です、弟が霊南坂教会で小崎牧師のもとで洗礼を受けました。私たちにとって敗戦は闇だったでしょうか。むしろ光でした。天皇は神でなくなりました。横暴な軍部はなくなりました。新しい時代の幕開けでした。皆、生き生きとしていました。皆さん、すべてのものが崩れる時、神のものが芽生えます。不思議と芽生えます。

  真に力あるものは何でしょうか。創世記では神が「光あれ」と御言葉を出しました。ヨハネの方では、初めに言葉があたのです。しかし、言葉はすべて力がるのではありません。くだらないおしゃべりもあれば、空念仏のような命令口調もあります。しかし、それは神の言葉があって、それにしたがって出てくる言葉だから力があるのです。
「そしてやみはこれに勝たなかった」
言葉が闇に打ち勝つことができるのは、つまり言葉が力をもつのは、言葉自身が、自分自身を賭けている時のみです。神は「光あれ」と言うとき、神自身が光なのです。ヨハネの言葉(ロゴス)も、言葉が肉体をとって、私たちの中に宿るということがなければ、それは天上の言葉であって、私たちの言葉ではなく、私たちを動かさないでしょう。言葉は肉体をとって私たちの中に宿る時、力を得るのです。

  説教が、力を与える時、それはその言葉の中に、説教者自身が入ってくる時です。多くの説教者の説教が力がないのは、説教者が、説教する言葉の外側にいて、ただ解説しているだけだからです。ニュース解説によって力を得る人はいないでしょう。戦場カメラマンの発言が、力強いのは、それが自ら生死をかけてかいくぐってきたことの体験から滲み出ている言葉だからです。 

  このことは何についても言えます。たとえば芸術作品がそうです。アンリ・ルソーの展覧会で、ルソー絵の最後に、何点か、日本のルソー画家と言われる人のものが出ていました。確かにルソーの絵に似ています。しかし、そこには力がありません。ルソーはある意味で自分自身を描いているのです。そのことが力となって絵に出ています。

  言葉にいのちがかかっていると言っても、特別な芸術家とか、事業家とか、特殊な人ならそうかも知れませんが、普通の平凡な生活をしている人はどうでしょう。そこにも同じことが言えるのでしょうか。たとえば、「今日は」というとします。「今日は、誰々さん」。その言葉に力を得る場合があるのです。その短い言葉の中に、自分がこもっているのです。意識しなくても、日常の祈りが滲み出るのです。それは地味なことですが、力であるには違いありません。

  第三者的言葉は、小さな挨拶でも、命のひびきがありません。日常生活で経験する、その命のひびきは、すべて自分自身のいのちが生きているかどうかによってきまります。初めにあった言葉(神のロゴス)は、命がありこの命は人の光であったように、その命の光を反映して私たちも光ることができるのです。「愛ある言葉は天をも動かす」と言われます。

  新しい一年は、そう言う意味で新しい一年としたいものです。そしてそれが、神が初めに「光あれ」と言われた意味ですし、またヨハネ福音書に、「初めにあった言葉ロゴスに命があり、その命は人の光である」ということの、現実における応答ではないでしょうか。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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