1月8日(日)「神 の 多 面 性」説教要旨

           聖句
旧約
 「神は一つの方法で語られ、また二つの方法で語られるのだが、人はそれを悟らないのだ」  
(ヨブ記33:14)


  新約
 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土が薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」  (マルコ4:3-8)


  私たち人間はきわめて単純で、つねに一つの方法しか知りません。それが駄目になると、もうすべてが駄目になったと勘違いし、絶望します。しかし、その時、神は別な方法をもっています。
「神は一つの方法で語られ、また二つの方法で語られるのだが、人はそれを悟らないのだ」
神は多面的です。「菩提樹」という映画で、ヒットラーに反対して故郷を逃れたタラップ・ファミリーがアメリカに上陸した時、全く方法がありません。皆もう駄目だ思いました。しかし、そのそばにいた神父さんは言いました。「神は八方がふさがれた時、一方を明けておられる」と。

  Ⅰコリント10:13に、
「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道を備えてくださるのである」
とあります。神の方法は一つではありません。必ず「逃れる道」があるのです。私たちは頑固一点張りで、自分が手にしているたった一つの方法をのみ固執して、世界にその方法のみしかないと思い込んでいるのです。しかし、神は柔軟です、神は、人が考えるよりも多くの方法をもっています。ただ人がそれを知らないだけです。

  マルコ福音書の種まきのたとえを見てご覧なさい。撒かれる種はいくらもあります。道ばたにおちてすぐ鳥がきて食べてしまうこともあります。しかし、それですべてがおじゃんになったのではありません。薄い石地に落ちた種もあります。それも駄目なるともう方法はないかのごとく錯覚します。いばらの中に落ちる場合もあります。しかし、それにがっかりしてはいけません。もう一つ良い地に落ちた種があります。この時に至って初めて私たちは神さまの方法が分かります。多くの方法は駄目になるでしょう。その駄目になることも、ある意味で必要なのです。たった一つの良い地に落ちた種のあることを知るためです。

  神ご自身「三位一体」です。三つの方法をもち三つの姿をしていますが、神は一つです。そのように神は深いのです、私たちの所にこられるかと思うと、また天のかなたにいます。しかし、同時に私たち自身の中にも聖霊としています。まことにこの世界、神のおられないところはありません。

  また世界にはいろいろな国、いろいろな民族があります。それぞれ違います。その違いが大切です。神は一つの方法だけではなく、いろいろな方法をもっています。外国に行くとよいことは、自分が相対化されることです。日本のやりかたがすべてではないことを知ります。親切なサマリア人のたとえでは、ユダヤ人だけと思う祭司、レビ人に対して、サマリア人は、それを越えていろいろ民族のいること、そしてそれらはみな一つの人類であることを知っていました。まさに愛は、自分の一つの方法だけでなく、多面性をもっています。それは愛なる神の多面性にほかなりません。

  しかし、私たちには、神の多面性の全貌を見ることはできず、その時、その時ではただ一つのみしか見えません。ですから心配が起こります。イエスはそこで
「何事も思い患うな」
と言われました。その神の多面性はそこでは信仰の中にのみあります。「信ぜよ、思い患うな、神は必ず逃れる道を備えたもう」。日本人のよく「仕方がない」と言います。それは「方法がない」、つまり「万策尽きた」という意味です。しかし、そうでしょうか。神において方法がなくなることはありません。もう一つの道があります。
「神は一つの方法で語られ、また二つの方法で語られるのだが、人はそれを悟らないのだ」
それはただあなたが知らないだけです。そこであきらめてはいけません。あきらめずに祈っていると、必ずそこに道があることが分かります。

  私は万策尽きたと思った時、宣教師のところに行って聞きました、「祈りは聞かれるといいますが、その言葉は英語では何と言うのですか」、その答えは"God hears your prayer"(神が聞いておられる、あなたの祈りを)でした。そこでは思考方法が全く転換しなくてはなりません。私→神に、これをコンヴァーション(回心)と言います。それは180度の転換を意味します。その時、あなたは方法を見いだします。

  私たちは自分がこれだと思って信頼していた方法が挫折した時、その失敗の砂の中から、新しい方法をつかんで立ち上がるのです。その失敗の中で、新しい方法を見つけるのです。それで「失敗は成功の母」と言われるのではないでしょうか。初めから全貌を見る人はいません。
「神は人に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお人は、神のなされる業を初めから終わりまで見きわめることはできない」(伝道3:11)
また「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足また一足道をば示したまえ」(賛美歌288)。今日は一つの方法を、明日はまた別の方法を、こうして私たちは、失敗を通して、賢くなり、神の方法を見いだすのです。その意味で失敗も信仰には有益なのです。
「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起き上がる。たといわたしが暗闇の中にすわるとも、主はわが光となられる」(ミカ7:8)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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