1月15日(日)「個人-最も小さいもの」説教要旨

           聖句
旧約
 「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」  
(イザヤ9:6-7)


  新約
 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう」  (ルカ15:4-7)


  古代東方諸国中で、ただひとりイスラエルという小さな国が、まわりの多神教のアッシリア、エジプト、バビロニアの大国の中にあって、「一神教」を保ち続けたのです。その国にイエスが生まれ十字架にかかり、その四十年後、紀元七十年イスラエルは、ローマのために完全に滅ぼされ、土地を失い、世界各地に散らばりさ迷い続けました。

  それから、第二次世界大戦の終了後1948年に、もとのパレスチナの地に再建します。何と国土を失って約1900年後です。不思議な国ではありませんか、その間、このイスラエルの民は、唯一神の信仰を守り続け、滅びませんでした。それはこの民が神の選びの民であったとしか考えられません。何千年もの歴史を貫いて、ただひとりの神、それを守り抜いたのです。

  今日、「個人-この最も小さなもの」として学びを深める、その個人とは、ひとりの神、そしてのひとり子イエスが、
「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)
と言われたことと対応します。天にいますただひとりの神、そして地上にあるただ一人の一個人、この二つはつながっています。不思議な見えない糸でつながっています。

  そしてひとり子イエスは、有名な迷う一匹の羊のたとえを語られました。そこでは九十九という数ではありません。一匹です。数を越えたもの、それは何でしょうか。「個人-この最も小さいもの」、そこに価値を無限の価値をみとめるもの、それは何でしょうか。その個人の価値ではありません。その人のもつ力、能力なら数で計れます。それは、その人の「もたない何か」です。ある信者に生まれた子の一人が知的障害者であった。そのショックは大きかった。しかし、彼女をして立ちあがらせたのは、このひとりのイエス・キリストへの信仰でした。
「これらの最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのである」
またマタイ福音書二十章には、夕方行ってたった一時間しか働かなかった者にも一デナリを与えるたとえがあります。
「わたしはこの最も後の者にも同じようにしてやりたいのだ」
それは何かの価値、人間的価値を越えたもの、ただこの天にひとりの神がいて、そのひとり子は十字架にかかって死ぬ。このひとりが最大の価値をもつ、それはこの十字架にかかったひとり子のゆえであります。教会はただ二千年間、このことをのみ伝えて来まし。この価値、それは十字架の血の値にほかなりません。 

  この一人の個人は「名」をもつのです。「個人」だけでは抽象的です。名前をもつということは、第一に呼ばれる、「誰々さん」と、つまり名をもって初めて関係の中におかれます。名前をもつことは、家族の愛に包まれることです。さらに社会においてその名で呼ばれ、そこには対話が生まれることを意味します。

  そのことはただひとりの神と関係しています。このただひとりの神が名をもっているのです。その名はヤハウエ「ならんとするものになる」という意味です。イスラエルの民が苦しんでいる時、その民の中にこの神は、なるお方です。あなたの苦しみのところに、「ならんとするものになる」お方にほかなりません。名をもつ神は、あなたの友でもあります。天高くある神でなく、あなたの姿になる神であります。別な言葉で言えば
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」
お方です。 

  この一人を大切にするイエスの信仰は、当時の人びとにどう映ったのか。民衆には病をいやし、奇跡を行ってくださる御利益の頭です。ユダヤの当局者には、一人を大切にして律法を軽視する者、彼らには、ひとりの魂よりも律法の方が大切だったのです。イエスは
「安息日は人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない」
(マルコ2:27)と言われました。またローマの官憲には民衆を惑わし、革命を企てるかもしれない者です。イエスのひとりの魂を大切にする、ひとりの神への信仰は、すべての人びとに誤解され続けたのです。それゆえ、そのイエスが捕らわれた時、それまでイエスを追いかけた民衆は、「十字架につけよ」と叫んだのです。

  歴史の中で、このイエスの信仰は、少なくとも二度危機に出会いました。一つは、自然科学の発達し啓蒙主義が叫ばれた時です。第二の最大の危機は、共産主義でした。資本主義の終わりを予言し、戦闘的無神論、唯物論を唱えたこのマルキシズムは、今日没落し、その共産中国でキリスト教が燎原の火のように広がっています。その信仰の中心は、ただ一人の神、そしてどんな小さな者も、全世界にまさる無限の価値をもつという教え、それは静かに勝利して行きます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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