1月22日(日)「聖なる霊の苦悩」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」  
(イザヤ63:9)


  新約
 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして人の心を探り知る方は、御霊の思うところが何であるかを知っておられる。なぜなら、御霊は聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」  (ローマ8:26ー28)


   この度の大震災の時、モルトマンから来たファックスに、Gottes Leiden(神の苦悩)とあったのが印象的でした。その前日、東京都知事が「これは天罰である」という発言をしていたからです。天罰と言って、傍観しているのでしょうか。「神の苦悩」という言葉は全く違います。神ご自身が第三者的に傍観していないのです。まして罰を与えるどころか、神ご自身が苦しみ悩んでおられるのです。それは十字架の神です。

  今日のイザヤ書の言葉に、
「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」
とある通りです。また今日の新約聖書にも、
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」
とあります。私たちは苦しみの時、祈ります。しかし、その苦しい状態が過ぎて、もっと苦しくなると、人は簡単には祈れなくなります。あの地震のとき、「祈らなかった、いや祈ることを忘れていた」と言ったクリスチャンがいました。そうです、本当の苦悩の時、案外祈れなくなるのです。

  フォーサイスというイギリスの神学者は、「キリスト者最大の罪は、祈らないことである。祈らないから、いよいよ祈れなくなる。それは精神的失語症である」と言っています。この弱さは、未信者の弱さどころか、ほかでもなくキリストを信じている信仰者の弱さであります。キリスト者が、「神を信じている」と言いながら、祈らないのです。それは助け舟がすぐそこに来ているのに、大声で呼ばわらない愚かな人のようです。その時、神は「私の神」ではなく、遠い所の神です。

  しかし、聖霊とは私自身の中に働く、いや現に働いている神なのです。私たちはこの聖霊の助けを求めて祈る以外にないのです。すべてほかの助けは、たとい一時有力に見えても、この現実的な助けのまわりをまわっているにすぎないのです。それなのに、私たちは、「私はこのような中にあって、何をどのように祈ったらよいか分からない」と言うのです。これこそ私の本当の弱さでなくて何でしょうか。

  けれども聖霊は、この私たちの最大の弱さを知っています。知っているだけではなく、
「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」
のです。 難破船にあって救命イカダにぶら下がっていたとします。それは自分で捕まっているのですから、ある意味で自力の救いです。しかし、自力救済には限界があります。手が疲れて、一人二人と手を放して海中に沈んでゆきます。祈りも、人間がするものとすれば、自力の救いの一つではないでしょうか。それにも限界があります。「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが」、それが限界です。しかし、その時イカダの上に、力強い方がいらして、その萎えた手をしっかりとつかんで上に引き上げて下さったならどうでしょう。それがイエス・キリストの助け、ここでいう「聖霊の言いがたい嘆きをもってのとりなし」にほかなりません。

  ではそのような「とりなし」の結果、何が起こるのでしょうか。
「すべてを共に働かせて、益に変えてくださるのです」
私たちはこの世に現実にあって、いつも善と悪、幸いと禍いという二つのことを知っています。しかし、この二つの関係を知っているでしょうか。聖霊のとりなしは、私たちにとって悪、害、禍を、益、善、幸いに変えてくださるのです。そしてこの二つは、私たちの現実の中で共に働いています。人間の混乱でしかないものを、神の摂理に変えてくださるのです。この「共に働かせて」ということが、聖霊の不思議な働きです。その時、信仰者は、悪、害、禍を見て恐れることはなくなります。それはほかでもなく、善、益、幸いに変わる材料であるからです。 

  このローマ八章をさらに読んで行くと、その理由が分かります、
「神が私たちの味方ならば、誰が私たちに敵しえようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、私たちすべての者のために死に渡されたお方が、どうして、御子のみならず万物を賜らないことがあろうか」
「私は確信する、死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高い者も深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:31以下)
とあります。あの救命イカダの上に、生けるお方がいらっしゃるのです。
「すべて労するもの、重荷を負う者はわれに来れ、われ汝を休ません。わがくびきは負いやすく、わが荷は軽ければなり」(マタイ11:28)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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