1月29日(日)「無 知 の 知」説教要旨

           聖句
旧約
 「それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうち賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」  
(イザヤ29:14)


  新約
 「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのであると書いてある。」  (Ⅰコリント1:18-21)


   信じている時、必ずそこに知的問題が出てきます。たとえば、「十字架によって救われる」と言うけれども、それはどういう意味なのか、「罪のあがないだ」と答えられると、さらに「あがないとは何か」と言うように。日本人の信仰は、比較的、知的でなく、感情的なものです。「鰯のあたまも信心から」という言葉さえあります。要するに信じる対象は何でもいい、問題は「あなたの信じる心」だと。

  しかし、キリスト教は、
「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり」、「その言葉は肉体をとってわれらの中に現れた」
とあります。キリストはロゴス(言葉)として、神なのです。それでキリスト教を「言葉の宗教」と言います。「神の言葉(ロゴス)」は、啓示され、イエス・キリストにおいて人に理解される形で示されます。言葉という以上、知的な面が出てきます。もちろん信仰そのものは、決して知識と同じではありません。

  ハイデルベルク信仰問答に、「まことの信仰は、神がご自身のみ言葉において私たちに啓示されたことを、みなまこととする確かな認識だけではなく、また聖霊が福音によって私たちの中に起こしてくださる心からなる信頼です」とあります。ここに信仰の内容として、「認識」と「信頼」という二つが示されます。信仰には、ただ「知る」だけでなく、「心から信頼する」面が必要です。しかし、それだからといって「認識」という知る面が無視されてはいません。人間の心は、「知・情・意」に分かれているように、情だけでなく、知の面もあります。

  アンセルムスは、「信じて後、知ろうとしない者は怠け者のそしりをまぬかれない」と言いました。私たちは愛している人を、もっとよく知ろうとしないならば、その人は本当に愛しているとは言えないでしょう。さらに彼は言いました、「信ぜんがために知らず、知らんがために、われ信ず」と。つまり「知識を積み上げていって、信仰に到達するのではない」という意味です。後半の「知らんがために、われ信ず」とは、「本当に知るために、私は信じるのである」。つまり、信仰が先にあって、知識がそれにともなうのだという訳です。知識→信仰でなく、信仰→知識です。 聖書では知識に二通りあります。
  • 1 神の知識=十字架の言葉=救い=神の力=宣教の愚かさにより神信仰に到る。
  •  2 世の知識=自分の知恵=神によって愚かにされる=神を知ることはできない。


  この世の知識は、自分が主体で、他のすべてを対象として客観的に観察し知るのです。そこには自己は入っていません。外の知識は増えても、自分の救いにはなりません。たとえばガンを研究していた医学者が客観的に観察しているうちはよいが、いざそのガンが自分の中にできたとすると、もはや観察してはいられない。そこではガンは研究の対象ではなく、自分の実存をかけた「生き死に」の問題となります。

  十字架の言葉、神の知恵は、自分が含れた知識、それは神の力になります。この世の知恵は神によって愚かとされる。なぜなら、そこには自分自身が勘定に入らないから。しかし、十字架の言葉はこの世の知恵から見ると「愚か」。イエスほど、馬鹿をみた人はいない。「愚か」のきわみです、しかし、神はこの宣教の愚かさによって、信じる人を救う者とされました。「宣教の愚かさ」とは何でしょうか。十字架です。十字架とは、罪深い他者のために、自分の命を捨てる、大馬鹿です。しかし、それはまれに見る神の愛の現れにほかなりません。この神の愚かさの愛によって、罪人は救われるのです。それは神の知恵であり、神の力でもあります。

  ではキリスト教では、この世の知識と神の知識の関係はどうなるのでしょう。改革教会の神学では、この二つを「一般恩寵」と「特殊恩寵」と言います。信仰なくてくても、受ける恵みを、「一般恩寵」と言います。たとえば科学技術は一般恩寵です、その他、結婚、天候、仕事など信仰者だけでなく、一般に持ちえます。

  しかし、一般恩寵は、罪にけがされます。結婚は神の一般的恵みですが、離婚に発展することもあります。科学技術は生活を豊かにしますが、同時に危険ももたらします。そこで必要なのは、特殊恩寵(イエス・キリストにある恵み)であります。一般恩寵は特殊恩寵によってきよめられんばなりません。それが神の知恵とこの世の知恵の関係です。一般的恵なしには私たちの生活は成り立ちません。しかし、特殊恩寵なしには、それは罪によって滅びるでしょう。このたびの震災で、一般恩寵の限界を知りました。いまこそ私たちは特殊恩寵(キリストの恵み)に目を注ぎましょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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