2月5日(日)「キリストのからだなる教会」説教要旨

           聖句
旧約
 「モーセのしゅうとは彼に言った、『あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重すぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。またすべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい」  
(出エジプト18:17-21)


  新約
 「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言を告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである」  (コロサイ1:24-25)


   仏教では「仏・法・僧」と言います。そこには一般の信徒も寺院も出てきません。しかし、キリスト教では、イエス・キリストの啓示が中心ですが、その宣教の主体たる「教会」という共同体に重要な意味があります。「キリストのからだなる教会」と言います。この集まりに信仰上、深い意味があるのです。

   Ⅰコリント12:4以下で、「キリストのからだなる教会」を人間の肢体にたとえています。同じ御霊の賜物が、ある人には知識の言葉、ある人には預言、ある人には力ある業、いろいろの賜物があります。それはからだの手足です。しかし、他の肢体に対して、目が手に向かって、おまえは見ないから要らないとは言えません。
「そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのである」
そしてこの教えは、Ⅰコリント13章の「愛の教え」につながります。キリストのからだの共同体は、愛の共同体なのです。 

   パウロは、ここで
「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言を告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである」
と言っています。「キリストの苦しみのなお足りないところ」とは何でしょうか。キリストの十字架の苦難に何か欠陥があるのでしょうか。

  そうではありません。救いのためには、十字架で十分であり、完結しています。それに何も加える必要はありません。ではパウロはなぜ「キリストの苦しみのなお足りないところ」と言うのでしょう。その次を見てください。
「わたしは、神の言を告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである」
とあります。それはこの地上に、「それ自体、完全な救いの業である十字架の福音」を告げ広める業です。完全な救いの十字架も、それを告げ広めなければ、救われる人は出てきません。 

   最近、中国のキリスト教の代表(王牧師)が日本に来ました。その話によると、三自愛国の教会(つまり中国政府公認の教会)の信徒が二千万人、そのほか、各地に散っている家の教会の信徒が三千から五千万人いるそうです。初め共産党政府は宗教を歓迎しませんでしたが、押さえ切れないとみるや、三自愛国運動の教会、つまり政府公認の教会のみ認めていたのですが、燎原の火のように広がる家の教会をどうすることもできません。

   今度、家の教会の指導者を牢から解放したという記事がでていました。中国の教会はこの福音を告げ広める務めを忠実に果たし、パウロの宣教の跡継ぎとなっているのです。それは国家を越える力です。静かな福音宣教が、国家・世界を変えるのです。

   初代の教会もそうでした、無数の殉教者がでると、一人の殉教者の血が、千人の信仰者を生み出したそうです。現在のイランでもそうです。すでに五人の牧師が殉教しました。しかし、このイスラム国教の中で五人に一人、キリスト者がいるそうです。今も働くキリストの力、聖霊の不思議な力を感じないわけにはゆきません。そこにキリストのからだなる教会が生まれます。それはペンテコステの時と同じように、聖霊の働きです。

   からだですから病むこともあります。生きているから病むのです。しかし、問題は、その病む時の対処が肝心、正しく対処すれば、病は益となります。病む時のため、教会は法をもちます。それはその時、その時で適当にでなく、常に変わらないイエス・キリストの原則に生きるためです。しかし、法は人のためにあるから、条文でなく愛が上位です。それゆえ、Ⅰコリント12章でキリストのからだを描いた後、パウロは13章の愛の章に移ったのです。そこにある組織が必要であります。しかし、イエス・キリストが中心です。だから教会は「キリストのからだ」と呼ばれているのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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