2月12日(日)「なおりたいか」説教要旨

           聖句
旧約
 「イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主に宮に上るであろう。かつわたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしぼべダビデのためにこの町を守るであろう』」  
(列王下20:4-6)


  新約
 「エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大勢からだを横たえていた。[彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである]。さて、そこに三十八年の間、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっているのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた。この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』。イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」  (ヨハネ5:2-9)


  次のような質問を受けたことがあります。ローマ書三章に「イエス・キリストの信仰による神の義によって救われる」とありません。この「イエス・キリストの信仰」は、「キリストを信じる私たちの信仰」か、それとも「私たちに対するイエス・キリストの真実(信仰)」かと。

  カール・バルトは、「イエス・キリストの真実」と訳していますが、その教義学の中で、第一に「どこで神の言葉が見いだされるか」として、人になった神の言葉(イエス・キリスト)、そして書き記された神の言葉(聖書)を客観的な神の言葉とします。次いで「どのようにして神の言葉が認識されるか」として、「神の言葉と人間」、「神の言葉と経験」、「神の言葉と信仰」と言うふうに、私たちの側の信仰も述べています。しかし、第一には客観的な神の言葉(イエス・キリスト、聖書)がくるでしょう。しかし、それだからと言って、私たち人間の経験や信仰が無視されている訳ではありません。

  パリサイとの問答で、イエスは
「こころを尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なる神を愛せよ、第二もこれと同様である、おのれのごとく汝の隣人を愛せよ」
と言いました、神への愛は第一です、しかし、それだけでなく第二が続きます。人間同士の愛です。これが私たちの信仰において、神と人間について考える基本ではないでしょうか。そのことをふまえて、今日の聖書に参りましょう。

  
「そこに三十八年の間、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっているのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた」
イエスがここで、「なおりたいか」と病人に聞いていることは、よく考えてみると、おかしいです。ベテスダの池のまわりに座っている病人は「なおりたいから」、そこに長いこと待ちつづけているのではないでしょうか。ちょうど、病院に入院している人をお見舞いに行って、「なおりたいですか」と聞くようなものです。しかし、この愚かと見える言葉が、大切なのです。なぜなら、イエスは、病人の「なおりたい」意志を聞いているからです。

  先ほど述べた、客観的なイエス・キリストの側の信仰だけで、こちら側の私たち人間の側がない信仰はいけないというのと同じです。私自身、長いこと病気の生活をして、感じたことは、「意志が医師である」ことです。「よくなる、必ずよくなる」と信じ続けることが大切です。この意志を失ったなら、おしまいです。イエス・キリストは、絶望的になって、ベテスダの池のほとりに座っている人に、今一度、「なおりたいか」と、意志を聞いたのです。彼はもう習慣的に、毎日ぼうぜんと池のほとりに座って、意志も失い、絶望に近い気持ちだったのです。それでイエスは、「なおりたいか」と聞いたのです。

  十二年間も長血をわずらっていた婦人が、イエスの衣のふさにさわりさえすれば、自分の病気は必ずなおると信じて、ふれた時、イエスは
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」
と言いました。そこにイエス・キリストがいやしの主としていまさなければ、女の信仰だけでは救われないでしょう。それなのに、イエスは、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言いました(マルコ5:25-34)。
「もしカラシだね一粒の信仰があれば、この山に移って海に入れといってもそのごとくなるであろう」(マタイ17:20)
とも言っておられます。

  では神と人とで半分半分か、そうではありません。農夫は種を蒔きます。実を実らせる力は完全に百パーセント神にあります。農夫はそれをただ蒔くだけです。それは別の行為です。種の成長はは神の百パーセントに完全に依存しています。しかし、蒔かぬ種は生えません。完全にそれはあなたの信仰にゆだねられています。救いは完全に百パーセント神にあります。しかし、あなたも信じなければなりません。それがあなたの信仰の意志です。だから「あなたの信仰があなたを救う」のです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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