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2月19日(日)「呼 び つ づ け よ う」説教要旨
  聖句
旧約 「わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました」   (詩編18:6)
新約 「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」  (ルカ福音書11:9-10)
  八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩があります。
「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう
あん、あん、あん、あん
あん、あん、あん、あん
うるせいな
うるさかないよ
呼んでいるんだよ
神さまを呼んでいるんだよ
みんなも呼びな
神さまを呼びな
あんなにしつこく呼びな」
  赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていません。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続けます。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきか、正しく教えているかのようです。
  今日の詩編には「わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました」 とあります。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶのです。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えたもう手段は、神に呼び求めることでした。「みんなも呼びな、神さまを呼びな、あんなにしつこく呼びな」。
 赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやみません。神への信頼でしょうか、要求の激しさでしょうか。その両方でしょうか。全身をふるわせて泣き叫びます。それは私たちの祈りに対する指針ですらあります。私たちの祈りは、ぼそぼそとしています、それは叫びでしょうか。神を呼ぶと言えるものでしょうか。 イエスも熱心に求めることを教えました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」
  これは「求めよ、捜せ、門をたたけ」 と三重になっています。ふつう同じことを詩的に繰り返したにすぎないと思っています。しかし、これは繰り返しではありません。まず口で「求める」、ついで足を使って「捜す」、最後に手を使って「門をたたく」のです。ここには神への呼びかけが、次第に高くなって行くことが手に取るように明かに示されています。祈りとは、そのように動的なことです。おざなりに一回きりでやめるのではありません。
  中国の家の教会についてこういう話があります。文化大革命の時、辛という、いわば信徒伝道者のようなおばあさんがいました、男の紅衛兵に犯された女の紅衛兵が分裂病のようになりました。辛おばあさんは、その女の子の枕辺で必死になって幾晩も祈り続けました。ついに叫び続ける祈りが勝利しました。その女の子は、よくなって、おばあさんの伝道にくっついて証しして歩いて回りました。これがあの文化大革命の嵐の中で、叫び求める家の教会の祈りの姿です。
  私は失業中のある方に、次の実話を書いて送りました。戦争直後、失業者で町はあふれ、傷痍軍人が町角でアコージョンをひいて金品を乞うている時代でした。西方町の教会の婦人は子供があって、ご主人を戦争で失い、自ら働かねばなりませんでした。彼女は、仕事探しにまわり、どこにもなく疲れ果て、倒れ臥しました。彼女はくたくたになって、もう走り回ることをやめ、必死で祈りました、一晩中祈って、翌日仕事が見つかったのです。
  イエスのことばは、最後に「門」があると言います。その門は向こう側から閂がかかっていて開きません。「カンヌキ」それは祈りの聞かれない状態です。しかし、こちら側からはでは開かれなくても、神の側では開くことができます。そのため祈る人は、その閉じられて明かない門をたたきます。向こう側から開かれるまでたたき続けます。「友人だというのでは明かないが、しきりにねがうのであけてもらえる」と言われています。「しきりに」、つまり神さまと友達関係で、自分は洗礼を受けて三十年にもなるから、神学を学んで久しいからとかいう理由では明けてもらえません。しかし、学がなくとも、熱心に執拗に「しきりに」叫び続けるなら明けてもらえます。門です。それは壁ではありません。必ず開きます。
  皆さん、赤ん坊はなぜ、あんなに全身で叫ぶのでしょう。それは単純な理由からです。赤ん坊は外に手段をもたないからです。それは外に手段をもたない無力な赤ん坊に神さまが、お与えになった唯一の手段です。辛おばあさんは、どうして一人の女の子のためにあれほど必死に祈ったのでしょう。それは文化大革命の嵐の中で、キリスト者は弱く、外に手段をもたないからです。私たちももし同じように外に手段をもたないほど追い詰められたなら、そのように祈るはずです。ガンを宣告された時、真剣に祈るでしょう。何もない平穏無事な時でも、生きていることは、絶えず死と背中合わせです。そのことをキリスト者は十字架によって教えられています。「日々死す」とパウロは言いました(Ⅰコリント15:31)。その境地にいるなら、日々真剣に祈らざるを得ないでしょう。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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