3月4日(日)「 日 々 是 好 日 」説教要旨

           聖句
旧約
 「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである」  
(詩編68:19)


  新約
 「兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇りにかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである」  (Ⅰコリント15:31)


  「日々是好日(毎日その日がよい日)」とは、一日一日精一杯生活するその時がよい日だというのです。十九世紀は、歴史ということが考えられた進歩の時代で、楽観主義的時代でした。進化論のダーウイン(1809-82)が出たのも、マルクス(1818-83)が出たのもこの時代でした。しかし、マルクスのように、原始時代から封建制、近代資本主義、さらに社会主義をへて共産主義という黄金のバラ色の時代が来るとなると、「黄金のバラ色の時代(共産主義社会)」が来る前の時代の人びとはどうなのかという問題が起こります。一人一人自分個人の生をもっています。そんなよい時代がくるまで生きていない人がほとんどです。

  それに、一人一人限られた七十年、八十年という生涯があります。この今生きている生はどうなるのか、この問題に十九世紀の歴史的進歩の考えは答えられません。そこでその同じ十九世紀に実存主義が出て、キリスト教哲学者キルケゴール(1813-55)は、自己一個の生の問題を見つめました。問題はそんな歴史的進歩の話でなく、「今ここ」だと言います。時間的には「今」この瞬間、そして空間的には「ここ」が大切なのです。

  「今ここ」で生きる課題、それを実存的といいます。信仰は世の終わりに、神の国の完成を語ります。その意味で歴史的ですが、同時にそれは一人一人の実存的課題を無視しません。その点共産主義と違います。そのころランケ(1795-1886) と言う信仰的な歴史家がいましたが、彼は、各時代、時代がそれぞれ神につながっている大切な時代だと言いました。これは信仰的です。一人一人の今ここが、神につながっている大切な時だということになります。

  歳を取ると、死を目の前にし、パウロの
「われは日々死す」
という言葉がよく分かります。若い人でも、たとえばガンを宣告された人は一刻一刻の大切さがわかり、
「われは日々死す」
ということが分かるでしょう。これを賛美歌であらわすと「行く末遠く、見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足、また一足道をば示したまえ」(288番)となります。

  今日の二つの聖句で、もし後の
「私は日々死んでいる」
という死生観に、前の
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである」
がなければ、それは自己中心の死生観になります。しかし、日々死んでいる私を担う主がいます、「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな」。それは十字架のイエス・キリストであります。「日々われらの荷を」とは、私たちの罪、また苦悩を意味します。神が、私たちの苦悩、罪を負われていなければ、私たちの「日々死す」は、むなしい独りよがりになります。

  しかし、この信仰的実存と、あの神の国へ至る歴史との関係はどうなるのでしょうか。聖書はこの二つ、実存的信仰と歴史的な展望の二つをもっています。そのことを二つながらに表しているのは次の聖句です。
「愛する者たちよ、わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼(キリスト)が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼(キリスト)に似る者になることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」(Ⅰヨハネ3:2-3)
ここには、「すでに」と「いまだ」があります。
「わたしたちはすでに神の子である」
もうイエス・キリストが十字架かかりあがなってくださったから、すでに神の子です。しかし、それは約束においてです。それが成就する時、「いまだ」があります。そのいまだは明かでないが、イエス・キリストが現れる時、わたしたちはイエス・キリストに似る者となります。その望みに生きる者は、彼のように自らをきよくする、聖化の課題をもって、一歩一歩を、一足また一足を主によって示された道を歩むのです。

  でも死んだ人について、私たちは「彼は今天国にいる」と言います。イエス・キリストも同じ十字架につけられた盗賊に、
「今日、あなたわたしと一緒にパラダイス天国にいる」
言われました。カルヴァンは、神にあっては一日は千年のよう、神は時間に縛られない永遠のお方だから、今天国にいるといっても差し支えないと申しました。したがって信仰者にとって、天国は今なのです。

  瞬間、瞬間を信仰をもって生きる者にとって、終末は現在なのです。イエス・キリストも言われました
「神の国は人びとが見よ、ここに、見よあそこにと言う形で来ない、神の国は実に、あなたがたの中にある」(ルカ17:20)
とさえ言われました。歴史的終末論と実存的終末論とはつながっているのです。私たちはその神の国を今、現在、ここで信じるとき、日々是好日といえるのではないでしょうか。そこにいかなる出来事が起こり、人びとが不幸、災難と言う事態が起こっても、
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである」
と、詩編の詩人と共にに神を賛美できるのではないでしょうか。その時、やがて喜びの神の国の来るのを待つでしょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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