3月11日(日)「にもかかわらず」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」  
(創世記50:20-21)


  新約
 「そこで高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」  (Ⅱコリント12:7-10)


  「にもかかわらず」、この言葉は信仰から出てくる言葉です。なぜなら、私たちが困難や苦難に出会った時、たいがいはそれで参ったり、あきらめたり、絶望したりするからです。その絶望から立ち上がらせる力はどこから来るのでしょう。それが今日の「にもかかわらず」です。それには信仰が必要です。

  ふつうの常識的考え方は、「だから」です。こういう条件です、「だから駄目です」となります。その回答はたいがい否定的、悲観的なものばかり。けれども、信仰の回答は違います。こういう条件です「にもかかわらず、道が開かれます」となります。 

  今日の最初の聖句は、有名なヨセフの言葉です。ヨセフは、ヤコブの十二人の兄弟の一人で、ヤコブは年とってからの子だったので、ひときわこのヨセフを愛しました。ヨセフも結構生意気だったので、兄弟たちは腹を立て、彼を奴隷に売りとばしました。

  けれども、神はヨセフと共にいまして、彼はとんとん拍子に出世し、ついにエジプトの宰相にまでのし上がります。王様の見た夢から、七年の豊作に続いて、七年の飢饉があることをヨセフは知り、初めの七年の豊作時に食物を備蓄します。そしてまわりの飢饉の国々から、エジプトに食物を買いに来るようになりました。

  故郷のイスラエルでも飢饉が続き、ヤコブの十二人の兄弟たちも食料を買いにエジプトきました。この時、ヨセフは自分があの兄弟ヨセフであることを打ち明けます。兄弟たちは震え上がります。ヨセフは今、エジプトの宰相です。かってヨセフにした悪事の仕返しをしようと思えばできる地位にあります。しかし、ヨセフは言いました。
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」
ヨセフを奴隷に売った、兄たちの悪事、「にもかかわらず」、神はその悪事を良きに変わらせ、このことを通して故郷の人びとと全世界の人びとの飢饉を救わせたのです。
「神は、神を愛する者、み旨ねによって召された者と共に働いて、すべてのことを働いて益としてくださる」(ローマ8:28)
のです。 

  何も旧約聖書の昔に限りません。その事態は、今日の時代でも全く同じです。神の「にもかかわらず」は今日にも生きて働いています。次の新約聖書に行きましょう。パウロはすばらしい伝道者でしたが、あの全世界を旅して回るパウロは、決して完全無欠な人間ではありません。その肉体は弱く、しばしば倒れることがありました。 この弱い肉体が強くなれば、どれだけ伝道に益することであろうと何度も考えたことでしょう。「にもかかわらず」、神の恵みはそうではありませんでした。
「そこで高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげ(この病気)が与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』」


  パウロは、慢性病をもち、それは発作が起こると、周りの人の迷惑になるばかりか、パウロの恥でもありました。パウロにとって、弱さ、行き詰まり、危機、侮辱、どれ一つとっても、私たちにとって困窮のもととならにものはありません。しかし、パウロはこの困窮の中で、神の恵みの力が、その困窮の弱さの中でこそ、発揮することを学びました。信仰の歩みというものは、神の奇跡を信じる歩みであります。それは、人間の下からの思いにのみ捕らわれているのではありません。もう一つの道、上からの道を信じるのです。それは思わない時、特に、人間が駄目だと思う時に向こう側からやてきます。それが神の「にもかかわらず」なのです。

  私たちは、下からそれは、こういう風にやってきて欲しいと求め、要求することはできません。神さまに請求書を突き付けることはできません。けれども、「にもかかわらず」、それは上から、思わない方面からやって来ます。それが神の贈り物としか思えない仕方でくるのです。 パウロは、慢性病をもち、それは発作が起こると、周りの人の迷惑になるばかりか、パウそれを何時、どこで、どの位贈ってくださいと、人間が決めることはできません。「聖霊を自分のものとしようと思うな、聖霊があなたのすべてを所有しておられる」(テン・ブーム)。全く、自分を捨てて、この聖霊の導きのままになる時、それが起こるのです。

  「行く末、遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足また一足、道をば示したまえ」であります。サンダーシングというインドの伝道者は、しばしばインドの山奥で伝道の途上道を失いました。その時、しばし祈って面をあげると、天使が峰々で手招きしているのが見えます。そこへ行くと、また同じことをして新しい天使の招きを見ます。こうしてい祈りつつ進む道。そこで私を支えていたのは、神の「にもかかわらず」です。人の思いを越えて、働く神の摂理。「スイスは、人間の混乱と神の摂理によって導かれている」。「人間の混乱」、にもかかわらず、「神の摂理」は働く、否、人間の混乱だからこそ、そこに上からの不思議なみ手が働くのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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