3月18日(日)「天災をどう見るか」説教要旨

           聖句
旧約
 「主は言われた、『出て、山の上で主の前に、立ちなさい』。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた」  
(列王上19:11-12)


  新約
 「またシロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか、あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」  (ルカ13:4-5)


  この度の大震災の信仰的意味は何でしょう。都知事の「天罰だ」という発言は、あまりにも無責任な第三者的発言で、お粗末なものです。イエスは、
「またシロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか、あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」
と言い、不幸=罪、悪=罰という律法的図式を否定したのです。イエスが現在日本にいらしたら、東京都知事に「あなたも悔い改めなければ、同じように滅びる」と言ったでしょう。これは「天罰」発言の正反対のもので、「自然災害は自然現象で、神の意志とは別である。神の意志は、すべての人に悔い改めを求めている。それは十字架の福音で律法主義的パリサイ人の発言とは違うのです。

  この相反する二つと違った第三の道、それが今日の旧約聖書の言葉です。ここには主は通り過ぎられたが、風の中にも、地震の中にも、火の中にも
「主はおられなかった」
つまり自然災害は、自然現象であって、たとい大災害であっても、そこに主のみ心やご意志を読みとることはできない。しかし、
「火の後に静かな細い声が聞えた」
その静かな細い声とは、神の声です。 

  ではその「神のみ声」とは? 大震災の二日後、神学者モルトマンからファックスが来ました。そこに、「神の苦悩(Gottes Leiden)」と書いてありました。つまり
「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)
のです。それは十字架のキリストを示しています。ここにこの大災害の新しい神学的意味を見いだそうではありませんか。

  次にもう一つあります。それはイザヤの預言の言葉です。
「わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉を出だし、荒野を池となし、かわいた地を水の源とする。わたしは荒野に香柏、アカシヤ、ミルトス、およびオリブの木を植え、さばくに、いとすぎ、すずかけ、からまつをともに置く。人びとはこれを見て、主のみ手がこれをなし、イスラエルの聖者がこれを創造されたことを知り、かつ、よく考えて共に悟る」(イザヤ41:18-20)
これは荒野となったところに神は水を沸き出させ、さばくに川を流れさせる。さきほどのモルトマンの言葉が十字架とすれば、これは復活のキリストであります。主はよみがえられたのだ、この叫びが、聞かれるでしょうか、ドイツのある町で、戦争の被害でめちゃめちゃに破壊されました。人びとは、立ち上がる勇気も失い、意気阻喪していました。その時、ある一人の人が、「イエス・キリストは死人の中からよみがえられたのだ。われわれもまた、その福音を信じて立ちあがろうではないか」と言いました。この声に答えて、皆勇気を出し始め、ついに町は復興したそうです。これは復活の信仰です。 

  第三に、今度のことが他の震災と違うのは、原発の問題です。この間、地域防災工学の専門家の話を聞きました。「今度のことで、二つのことを学んだ、一つは、科学が自然を自由にして、人間の思うままにしてきた、またそれができると思った、その思い上がりが打ちのめされた。第二に人間は自然の前に謙虚にならなければならない。そして自然と共存し、自然と共に生きるようにしなくてはならない」と。それはそのまま、私たちの信仰にも言えるのではないでしょうか。
「わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉を出だし、・・・人びとはこれを見て、主のみ手がこれをなし、イスラエルの聖者がこれを創造されたことを知り、かつ、よく考えて共に悟る」
この言葉は、そのまま、今の科学と自然の関係にも言えるのではないでしょうか。自然は神が創造されたものです。それは人間の勝手気ままにできるものではありません。科学は謙虚になって、自然の背後にいます神をあがめつつ研究すべきです。

  
「神は彼らを祝福して言った、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1:28)
この言葉を、人間は自然を自由にしてよいとの意味ではありません。財産を預けられた執事のように、シュトュワードシップ(Stewardship)を任されたのだと取るべきです。人間は自然の主人公でも所有者でもありません。ただその「シュトュワーデスの仕事」を任されたのです。背後に神さまがいることを忘れてはなりません。
「わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉を出だし、荒野を池となし、かわいた地を水の源とする。わたしは荒野に香柏、アカシヤ、ミルトス、およびオリブの木を植え、さばくに、いとすぎ、すずかけ、からまつをともに置く。人びとはこれを見て、主のみ手がこれをなし、イスラエルの聖者がこれを創造されたことを知り、かつ、よく考えて共に悟る」
とあるではありませんか。
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.