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4月1日(日)「十字架の福音」説教要旨
  聖句
旧約 「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわが僕はその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなるものと共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」   (イザヤ53:11-12)
新約 「さてイエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人びとはそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」  (ルカ23:32-34)
  十字架の私たちに対する意味は三つあります。
  Ⅰ 苦しみ
人生の意味は「喜び」にあるのでしょうか。「喜び」は人生において新しいものを創造をしません。むしろ「苦しみ」が、何ものかを作り出す創造的意味をもっています。芸術家もそうですが、私たちも日々苦労してものを作り出しています。喜びはその苦労して作り出した結果としてともなうものです。ある会合で司会者が「人生で一番の喜びは何でしたか」と尋ねたところ、全員一番うれしかったことは、ある苦労があって、その苦しみを乗り越えた話ばかりでした。人生の意義は、苦しみを通して、何ものかを作り出し、その創造の後、真の喜びに達すのです。母親は、苦労して子供を育てます。苦しみこそ、偉大なものの創造の根源です。
十字架は神が苦しむ姿を表し、ここにおいて「苦しみ」は神的なものです。「彼らすべての悩みのとき、主もまた悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)。 十字架とは、この神の苦悩をあらわしています。あの激しい大災害の中で、この「神の苦悩」を見いだした人は、苦悩の中で勝利します。「神と共に」ということを経験します。「十字架の言葉は滅びる者には愚かであるが、救われる私たちには神の力である」とあるように。
 この相反する二つと違った第三の道、それが今日の旧約聖書の言葉です。ここには主は通り過ぎられたが、風の中にも、地震の中にも、火の中にも「主はおられなかった」 つまり自然災害は、自然現象であって、たとい大災害であっても、そこに主のみ心やご意志を読みとることはできない。しかし、「火の後に静かな細い声が聞えた」 その静かな細い声とは、神の声です。
  Ⅱ 愛
十字架は、また神の愛です。苦悩だけで、愛がなければ、意味がありません。「神は愛なり」 しかも、その愛は、上から恵む「慈悲」ではありません。下から「共に、苦しむ」愛です。罪ある者と共に生きて、罪人を愛する愛です。「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわが僕はその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」 このイザヤ書の主の僕の姿こそ、神の下から愛、共になる愛、罪人と共に生きる愛にほかなりません。
 しかもそれは罪人をゆるす愛であります。十字架の上の主の言葉は、「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが分からないのですから」 です。キリストは十字架の上で、罪人と連帯されるのです。十字架の隣りの犯罪人が、「御国に入る時、この罪深い私をも覚えていてください」と願った時、イエスはただちに、「今日、あなたはわたしと一緒に天国に入る」 と言いました。その愛は、私たちの罪、失敗、恐れ、すべての負(マイナス)と共にある愛です。私たちのよいところだけ取る愛とは違います。反対に、悪いところを取る愛です。その愛は、罪深い者を生かします。そのような愛はアガペーといって、全く無私な、自分を捨てて、苦しむ者、悩める者、罪ある者を愛し、生かします。
  Ⅲ 代理
本来代理ということは人間にはできません。人生の一大事、死を代理できません。他人の罪の代理もできません。お母さんが子供が病気で苦しむのを見て、できることなら代わってやりたいと思っても、一人一人自分の苦しみを苦しむ以外にないのです。しかし、この人間にはできないことが、神にはできる、神なら私たちの代理が可能です。私たちをお造りになったお方だからです。今、十字架の上で、神が代わりたもうのは、人間の罪、死、苦悩です。この代理とは驚くべきことです。あなたの罪、死、苦悩は、十字架の上で、神の子が代わりたもうた。だからあなたは負う必要はない。すべてはあがなわれた。一切ない、恐れる必要はない。このとりなしは、偉大な特別のものです。
「これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」
  以上の十字架の1.「苦しみ」2.「愛」3.「代理」を、二千年前の過去のことするなら、「そういうことが歴史上ありました」というだけで、今の現在の私には何の関係もありません。しかし、キルケゴールは、「同時性」と言いました。二千年前と今、現在のこの私とが、聖霊の働きにより同時になるのです。賛美歌136番に「血潮したたる、主のみかしら、とげにさされし主のみかしら、悩みと恥にやつれし主を、われはかしこみ君と仰ぐ、主の苦しみはわがためなり、われは死ぬべき罪人なり、かかるわが身に代わりましし、主の御心はいとかしこし」とあります。まさに同時性です。このことが現在、聖霊によってわたしに起こることなのです。
  ではその聖霊はどうしていただけるのでしょうか。聖霊の現実は、祈りの現実であります。
  神は祈り求める者に聖霊を賜らないことがあるでしょうか。(ルカ11:13)。
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