4月15日(日)「瞬間の知」説教要旨

           聖句
旧約
 「モーセは妻の父、ミデアンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブに来た。時に主の使いは、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、『行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないのかを知ろう』。主は彼が来て見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼は『ここにいます』と言った」  (出エジプト3:1-4)


  新約
 「彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答えがあった、『私は、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』」  (使徒行伝9:4-6)


    プロテスタント教会には、ルター、カルヴァンの影響を受け、「教理、信条、神学、教会」を大きく取り上げる改革派と、イギリスの国教会に反対したウエスレイの影響を受け、「回心、献身、聖霊、聖化」を強調する福音派があります。もちろん教会には法的面と霊的面とがあり両方とも大切です。法的面のみで霊的面を欠いたなら、信条や神学ばかりで、霊的喜びに欠ける教会になってしまいます。また法的面を欠いたなら、わさわさ騒がしいばかりで法的にまとまりのない教会になるでしょう。キリストに二つの性があるように、この二つはいずれも大切なのです。今日はそのうち霊的面に注目しましょう。「瞬間の知」という題は、ウエスレイが聖霊に清められた生活の「瞬間の聖化」を主張したことに基づきます。この回心を経験した人を、旧約からモーセ、新約からパウロの二人を取り上げてみましょう。

   モーセの生涯を見ると、彼が活気づいて、今こそ同胞をエジプトの奴隷状態から救おうと確信していた時、逆に同胞とぶつかりエジプトを逃げなくてはならず、逃げたミデアンの地で結婚し、日常生活に慣れ親しみ、全く使命を忘れてしまいました。人間は、これをしようと使命感に燃え発つ時、かえって自己中心になり、神のみ旨から離れ、逆に使命感を忘れ、日常性に戻った時、神の召しが向こう側から起こります。

  
「モーセは主に言った、『ああ主よ、私は以前にも、またあなたが僕に語られてからも言葉の人ではありません。私は口も重く、舌も重いのです』。主は彼に言われた、『誰が人に口を授けたのか。おし、耳しい、目明き、目しいに誰がするのか。主なる私ではないか。それゆえ行きなさい。私はあなたの口と共にあって、あなたの言うべき事を教えるであろう』」(出エジプト4:10-12)。
あれほど自信に満ちてイスラエルを解放すると自覚を持っていたものが、どうしてと思えるほど、モーセは気後れしています。しかし、神のお役に立つ人は、決して自信過剰の人ではありません。むしろ自信のない人です。からの茶碗にのみ、水は入ります。自分のむなしい人にのみ、神の使命は入ります。その際、自分の性質や才能は問題で入りません。神はこの口べたなモーセをおもちいになるのです。そこで神の語っていることが明らかになるためにほかなりません。聖霊の下る瞬間、それは人が自信を失い、からになった時です。

   次に新約のパウロです。モーセの場合と違って、彼が聖霊を受けるのは、ほかでもなく、彼がキリストに敵対していた時です。いやそれどころか、息をはずませて、キリスト者迫害の急先鋒であった時です。パウロは
「主の弟子たちに対する殺害の息をはずませながら、大祭司の所に行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それはこの道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムへ引っ張って来るためであった」(使徒行伝9:1-2)。
こうしてパウロはダマスコの近くに来た時、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らしました。彼は地に倒れました。その時、「なぜ私を迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。これがパウロの回心です。ここでキリストを信じるどころか、キリスト教を撲滅しようとする全くの反対者が聖霊を受けたのです。後にパウロはガラテヤ書に
「かつて自分たちを迫害していた者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えていると聞いて、私のことで、皆は神をほめたたえた」
と書いています。これは全く神の恵みとしか言いようのない出来事です。

   モーセの場合とパウロの場合で、ある共通点があります。それは二人とも神の恵みにはふさわしくない人物です。モーセは自分の性格の弱さから、召しを断り、パウロは迫害者で資格のない者です。けれども、神の恵みが逆に資格のない者に働くことが大切なのです。パウロは後にコリント教会にこう書いています。
「兄弟たち、あなた方が召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵ある者が多くはなく、権力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに、神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者をあえて選ばれたのである」(Ⅰコリント1:26-30)


   しかし、この二人は、召しを受けた時、全く正反対に違う点がありました。モーセは、私たちの弱さを代表しています。「私は口べたです」。モーセは、自分が日ごろから気になっていた弱点をあげました。それにひきかえパウロは確信に満ちています。その確信は神のみ旨と正反対の方向に向かっています。パウロの弱点はモーセと違って、その強さにあります。彼は律法学者のこれまでの信念から、キリスト教は間違っていると確信していました。この強さが、彼の弱点です。私たちには弱さを持つ欠点と強さを持つ欠点とがあります。弱さの人は、神の恵みの強さを忘れています。強さの人は、神の恵みが低いところに現れることを忘れています。人間の罪は、傲慢(パウロ)の罪と確信のない弱さの罪(モーセ)とがあります。いずれも神の恵みが分からないのです。パウロの確信は自分だけを見て、神の恵みを忘れ、モーセの自信のなさは、自分の弱さを見て、神の恵みの強さを忘れているのです。

   私たちが聖霊を受ける瞬間の知は、この恵みの大きさでなくてはなりません。
   


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