4月22日(日)「任せること、責任をとること」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ」  (詩編37:5-8)


  新約
 「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させてくださるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させてくださる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」  (Ⅰコリント3:5-9)


  信仰で一番大切なことは、神にゆだねることです。
「あなたの道を主にゆだねよ、主に信頼せよ。主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる」
神にゆだねることは、仕事を果たすことにつながります。この世の中では、仕事のやり方を教えます。あらゆる仕事に、あらゆるうまいやり方があります。しかし、聖書は、やり方を教えません。もっと根本的なことを教えます。聖書は自動車の動かし方、また算数の計算法を教えません。しかし、神を忘れて自分の力にのみより頼んで、自動車を動かしたら危険だということを教えます。聖書はむしろ「する方法」でなく、「しない方法」を教えます。「神にゆだねる」、それはある意味で「あなたは何もしない」ことです。けれども聖書が教える「何もしない方法」は、たとえば自動車教習所の教える「うまくやる方法」を否定するような、「何もしない方法」ではありません。「うまくやる方法」を肯定しつつ、「もっとうまくやる方法」があると聖書は言います。 それは何ですか?「あなたの道(方法)を神にゆだねなさい」です。「神にゆだねる」とは、教習所に行かないことではありません。その正反対です。それを認めつつ、もうひとつ上のことを考えるのです。自動車を運転しても、自分により頼むのと神に信頼するのとでは、全く違います。信仰とはこの忙しい世間の仕事の中に、「何もしない空間を作ること」です。たとえばお皿の上にご飯がのっています。「何もしない」とは、ご飯をもらないことでなく、ご飯の問題ではなく、ご飯をのせるお皿の問題です。壊れやすい紙のお皿か、丈夫な鉄製のお皿かの違いです。

   新約聖書でパウロはアポロとの共同作業について、「パウロは植えアポロは水注いだ」、しかし、成長させてくださるのは神である。だから植えるものも、水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させてくださる神である。もし神のみ業を取り除いたなら、そこには何事も起こらなかったでしょう。しかし、それなら人間の仕事は「無」なのでしょうか。無ではありません。お皿を食べる訳には参りません。ご飯は大事です。しかし、それを支えているものがあります。パウロはまたその業を建築にたとえています。
「神から賜った恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるのか、それぞれ気をつけるがよい。なぜならすでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そしてこの土台はイエス・キリストである」
どんなに建築が立派でも、土台を取り除いたなら、さしもの名建築も、がらがらと崩れ落ちるでしょう。

   神の土台に信頼し、これにゆだねる。しかし、私たちは何もしないのではなく、このだれも建てられない、神の土台の上に建てるのです。今日の題を見てください、「任せること、責任をとること」です。神に任せることを学んで来ました。しかし、それは私たちが何もしないことではなく、
「植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれの働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である」
とあります。神にゆだねるとは、責任を神にかぶせ何もしないのではありません。
「もしあなたがたのうちに、自分が知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。『神は、知者たちをその悪知恵によって捕える』と書いてあり、更にまた『主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである』と書いてある。だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべてはあなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そしてあなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」(Ⅰコリント3:16-23)


   私たちが仕事にのみ集中する時、私たちはいつのまにか神を忘れ、自分は賢いと自認し、自分を誇り、私が仕事の主人公になり、私の力だけを過信しはじめます。いけないのはこの過信、おごりです。 今日の題「任せること、責任をとること」は正反対に見えます。「任せる」とは、すべてを神にゆだねて、私たちは何もしないことではありません。神に任せる私は、同時に神の働き人です。私のとる責任があります。しかし、最終責任は神が取られます。信仰においては、この任せることと、責任を取ることとが、つながっています。神さまはすべてをなしてくださると言う時、神は私の自由を認めて、その仕事を通して働きます。私たちはその自由の中で、神への信頼をもつのです。
「あなたがたは立ち帰って静かにするならば救いを得、穏やかにしてより頼むならば力を得べし」(イザヤ30:15)
信頼して神に任せる時、その時、あなたは力を、真の力を得るのです。だからその力で、神から与えられた力で仕事ができるのです。
   


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