5月20日(日)「必ず実りあり」説教要旨

           聖句
旧約
 「主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時、『主は彼らのために大いなる事をなされた』と言った者が、もろもろの国民の中にあった。主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」   (詩編126:1-6)


新約
 「イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、『聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった』。そして言われた、『聞く耳のある者は聞くがよい』」  (マルコ4:2-9)


  
「主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった」
バビロニアに捕らわれていた時、ある日突然、北からペルシア王クロスが来てイスラエル人を解放したとしましょう。これを「運命の転換」と読むなら、それはどのような人の人生にもある出来事になります。ある日突然、自分不幸な運命が転換する、そういう日が来た、これはその時の言葉です。しかし、私たちは皆が皆、そう言うでしょうか。「われらは夢みる者のようであった」とは言うでしょう。けれども、「主がシオンの繁栄を回復されたとき」とか、「主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ」と言うでしょうか。つまり、私たち自身が主語になる時、「われらは夢みる者のよう」とか、「われらの口は笑いで満たされ」とは言うでしょう。ところがここにはもう一つ別な主語が入って来ます。
「主が大いなる事をなされた」
のです。すべて私たちを主語にすれば、ここにある不思議な、驚くべき出来事も人生にはありうることでしょう。しかし、それは「主が」なさったということは、私たちの信仰の出来事です。
「その時『主は彼らのために大いなる事をなされた』と言った者が、もろもろの国民の中にあった。主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください」


   皆さんの日常生活を考えて見てください。ほとんどが、私が主語で尽きていませんか。「私がやりました」。「私はすばらしことに出会いました」。「私が」、「私が」です。もちろん聖書にも、「私たちの口が笑いで満たされた」と、私が主語になることを無視してはいません。けれども、その私たちのもう一つ上に、「主が」いますことを忘れたなら、何になるでしょう。その実り、収穫、大成功は、それで終わりです。この主に目が留まる時に、その後のことが意味をもってくるのです。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」
「涙をもって種まく者」とは、状況が悪い場合です。だから涙を流しつつ事に当たらざるを得ないのです。もし「私」だけが主語である時、「涙を流して」も、泣いているだけで、それでも「種をまく」ことはしないでしょう。主がいますことを知っている者のみ、「涙を流しつつ」、「種をまく」ことができるのです。そしてそのような時、私たちが経験で知っているように、必ず「喜びの声をもって刈り取る」、「束を携え、喜びの声をあげて帰ってくる」ことができるのです。
   


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