5月27日(日)「聖霊と祈り」説教要旨

           聖句
旧約
 「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」   (ヨエル2:28-29)


新約
 「それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」  (使徒行伝1:12-14)


   聖書では祈りと聖霊は結び付いています。ルカ福音書11:13には、
「天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか」
とあります。聖霊は私たちの自由になりません。「聖霊を所有しようと思うな、聖霊があなたのすべてを所有したもう」(テン・ブーム)。聖霊は三位一体の神ご自身ですから、私たちが戸棚の中のものを取り出すように、自由に取り出すことはできないのです。反対に、聖霊が私自身を所有されるのです。しかし、ただたった一つ、私たちが聖霊をいただく方法があります。それは祈りです。私自身が低くなって、自分を無にし、聖霊なる神の前にちじんで小さくなり、私がなくなった時、その祈りの極致において、聖霊は私に臨むのです。決して祈りと交換に与えられるのではありません。私自身、今で言えば高校二年生の時、信濃町教会で洗礼を受けました。ただその次の年から私は悩み始めました。洗礼の感動は一時的で、すぐに薄れてゆきます。そこで聖霊のバプテスマがないのだと悟りました。それで低くなって神に祈り始めました、「主よ、聖霊をください」と。しかし、何日祈っても何事も起こりません。どうしてだろうかと不思議に思って、毎日をただ平凡に暮らしていました。しかし、ある祈祷会の時、長老さんの奨励を聞いているうち、生ける神が現れる、圧倒的な力を感じました。それはペテロがおびただしい魚の群れを見てイエスの前にひれ伏し、
「主よわれを去りたまえ、われは罪あるものなり」(ルカ5:8)
と言ったのと同じような経験でした。それから数年後にもう一回聖霊経験をいたします。 教会から離れていた時、私はからだが悪くなり、茨城県の田舎に疎開しました。その疎開先で、植村正久の「黒谷の上人」という文章を読んでいた時、突然、イエス・キリストの十字架が目の前に現れたように感じて、思わず、「このままに朽ちぬも今は喜びあり、主イエスの恵み満てるわれには」という歌が口をついて出て来ました。それは感動的な第二の聖霊体験でした。それから非常に心も軽く、病気を忘れ、いや病気がほとんどよくなり元気になりました。

   この二つの聖霊経験で言えることは、いずれも祈り求めていた、つまり聖霊は祈りと関係あること、しかし、何時、何処でということは祈っている自分自身にも分かりません。私の側にはただ待つことしかありません。上からある日突然聖霊は下ります。聖霊は私たちの自由にはなりません。しかし、必ずくだります。何時何処では神が決めてくださいます。しかし、聖霊がくだらないことは決してありません。

   祈りに方法ややり方などは一切ありません。ただ私自身の願いをぶつけるだけです。どのような方法でも自分の好きなやり方で、かまわないのです。ただ熱心に求めさえすれば、神はそれに答えてくださいます。
「求めよ、さらば与えられん、探せ、そうすれば見いだす。門をたたけ、さらば開かれん。すべて求める者は与えられ、探す者は見いだし、門をたたく者は明けてもらえるであろう」
「すべて」です、例外なくです。ただ求め、探し、門をたたく時、与えられるのです。聖霊はあなたの最も近くにあります。そして誰にでも下ります。しかし、「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」と使徒行伝にあるように、熱心に祈らなくてはなりません。われを忘れて真剣に祈らなくてはなりません。

   最後にでは、そのように熱心に祈り求める「聖霊」とは何でしょうか。神さまから出てくる霊気のようなものではありません。それは父・子・聖霊と三位一体と言うように、父が天の高みにいます神とすれば、子は地上に来られた神です。そして聖霊はあなたや私の中に生きています神であります。それは私を生かす霊です。そして
「聖霊によらなければ誰もイエスを主ということはできない」(Ⅰコリント12:3)
とあるように、聖霊は私にイエス・キリストを教えてくれる真理の御霊です。また慰め主、助け主です。さらに私たちがどう祈ったらよいか分からない時、
「言いがたい嘆きをもってとりなしてくださる」(ローマ8:26)
執り成し手であります。
   


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