6月10日(日)「すべての人と和らげ」説教要旨

           聖句
旧約
 「『わたしが悪に報いる』と言ってはならない。主を待ち望め、主はあなたを助けられる」  (箴言20:22)


新約
 「互いに思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい』」  (ローマ12:16-21)


   「すべての人と和らげ」、一体そんなことができるのか、こう問うかも知れません。すべての人の中には敵もいます。敵にまで愛の手を広げる訳にはゆきません。しかし、聖書における「すべての人」と言う箇所をあたってみると、
「すべての民に与えられる大きな喜び」(ルカ2:10)
「神はすべての人が救われて真理を悟るに至ることを欲しておられる」(Ⅰテモテ2:4)
にしても、ほとんど八割まで神が主体です。そうならば、神がすべての人を恵まれる事実の下に、私たちがすべての人と和らぐことがあるのではないでしょうか。神があって人があります。私が主で、その私がすべての人と和らぐなら、大変なことです。しかし、神がすべての人と和らいでおられるという事実に基づいて、そこにおいてすべての人と和らぐなら、比較的できやすいでしょう。少なくとも前進することはできます。相手は、神がその罪をゆるし、その人のために十字架にかかって和らいでくださった、その当の人だとすれば、その人と和らぐことは比較的やさしいと思います。

   イエスは
「あなたの敵を愛し、あなたを責める者のために祈りなさい」
と言われ、自ら十字架の上で、自分を十字架につけている人びとのために、
「父よ、彼らをゆるしてやってください」
と祈られたのです。「すべての人と和らげ」との言葉は、このすべての人のために十字架につけられたイエス・キリストの僕となることです。主の祈りの五番目の祈りは、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」です。「私の罪をゆるしてください」という時、「わたしに罪を犯す者をゆるす」ということがあります。もしそれなしに、「われらの罪をゆるしたまえ」だけなら、いい加減になってしまいます。私たちは神の愛を制限してはなりません。そしてそのことは、私に跳ね返ってきます。「すべての人と和らげ」と。

   神のすべての人との和解の現れの最たるものは、キリストの黄泉への下降(使徒信条「よみにまでくだり」)に現れています。ある人の言葉にありました、「キリストの黄泉への下降は次のことを意味する、キリストは、私たちのために地獄の経験をなめた。それは私たちのもと、私たちの地獄の経験の中に、あなた(生ける神)がおられるためである」。また「キリストはすべて滅び行く者をたずね、連れ戻すために、ご自分自身を滅びにゆだねられた。すべての苦悩が見通しのきかないものとならないように、地獄を開くために、キリストは地獄の苦悩をなめられた。キリストは、地獄を苦しみぬいたゆえに、それ以外には「すべての希望が失われゆかざるをえない」、その場所で希望を与える。キリストが地獄から引き出されたゆえに、地獄の門は開かれ、その壁は打ち壊された。 もしキリストの恵みが地獄にまで及ぶとしたら、神は「すべての人のために死なれた」のではないでしょうか。あなたが和らがなければならない人、それはたとい地獄にいるような悪人であっても、神の恵みの外にいるのではありません。だからすべての人と和らがなければいけないのです。それはこの十字架の黄泉にまで下ったキリストの福音から必然的に出てくる信仰にほかなりません。
   


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