6月17日(日)「運命と摂理」説教要旨

           聖句
旧約
 「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ。しかし、さとき人はこれをくみ出す」  (箴言20:5)


新約
 「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分の実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた」  (ローマ1:13)


   運命と摂理とは全く違います。「運命」とは得体のしれない、暗い不可解な力です。それに対して、「摂理」とは、明るい私たちを愛し導く生ける全能の神の導きです。運命に対しては「あきらめる」しか方法がありません。けれども神の摂理に対しては、「信じ、安心しておまかせする」ことができます。三十年ほど前、ある信者さんがガンになりました。今のようにガン治療の発達している時代でなかったので、その人は「これも神さまの摂理とあきらめています」と言ったので驚きました。キリスト者でも二つを取り違えているのです。「神の摂理」なら決してあきらめず、不思議な愛の神の摂理におまかせし、積極的に生き始めるのです。聖書には、「運命」・「宿命」という言葉はありません。この二つを取り違えてはなりません。

   パウロの生涯は神の愛なる摂理を生き生きと示しています。パウロは初めキリストの敵でした。律法学者である彼は、キリスト教は神の律法を無にするものだと、キリスト教を撲滅することを使命と考え、それを実践しました。キリスト者迫害に燃えている時、ダマスコ途上で生けるキリストに出会い、パウロは全く見えず聞こえず、無力にされ、そこから今度は反対に彼は熱心なキリストの伝道者となりました。彼はその伝道の末、首都ローマに福音を伝えたいと願いました。彼は
「これらのことがあった後、パウロは御霊に感じて、マケドニア、アカヤを通って、エルサレムに行く決心をした。そして言った、『わたしはそこへ行った後、ぜひローマをも見なければならない』」(使徒行伝19:21)
と記されています。しかし、不思議なことに、彼はその後、捕らえられ皇帝に上告します。こうして未決の囚人としてローマに行くことになるのです。しかし、そこで
「パウロは自分の借りた家に満二年の間住んで、訪ねて来る人びとを迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた」(使徒行伝28:30-31)
のであります。何とパウロの生涯は、神の摂理に満ち満ちていることではないでしょうか。 

   私自身の生涯も、パウロほど波乱はないにしても、神のご摂理としか言えないことがありました。今でも不思議に思うことは、家に神学校行きをはばまれて、東京外語のドイツ語科に行き、そこで提山という人物に会いキリスト教を離れました。しかし、そのことはキリスト教以外の宗教や哲学思想などを学ぶ機会になりました。さらに私は戦争中病気がちで、茨城の田舎に疎開しました、少し健康になってから、そこで小学校の教師やさらに荒れ地を開墾する農民になり、これらの経験がどれだけ、その後の伝道に役立ったか知れません。そして開墾がうまく行かず、飛び出し東京でまた提山に会い、それが奇縁でついに念願の神学校に行くことなりました。全く神のご摂理としか言えません。

   その頃、日本は敗戦となりました。しかし、敗戦もまた神のご摂理でした。1.天皇が神でなくなり、2.いばっていた軍隊が失墜し、3. 日本は民主主義国になりました。

   ただ聖書には「摂理」という神学用語はなく、それにあたる言葉は「御旨」です。
「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものをことごとく、彼によってご自分と和解させてくださったのである」(コロサイ1:19-20)
それによると「神の御旨」はーキリストのうちに現れ、特にその十字架の血においてー平和を来らせー万物、すべてのものとー和解されたのです。

   このように神の摂理とは、十字架を通しての和解-平和であります。別な言葉で言えば、十字架の否定を通しての平和、和解、それは「否定→肯定」、「×→○」です。神の摂理は、人間的に見て「否定的」なことを、「肯定的」なことへと変える力です。それに対して運命は否定を通しての破壊でしかありません。摂理は、十字架から復活の勝利が約束されています。信仰問答にはこうあります。

   「神の摂理を知ると、どういうことになりますか」、「思い上がったり、傲慢であろうとするすべての根拠が、私たちから奪いとられます。私たちは、幸せの時には感謝し、苦しみの時には信頼していることができます。なぜなら、私たちは生も死も、現在のものも将来のものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちをこの神の愛から離すことができないことを知っているからです」。私たちもまたどんな不幸のどん底でも、この神の勝利、神のご摂理を信じて行きましょう。
   


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