7月15日(日)「日本的人生観」説教要旨

           聖句
旧約
 「憎しみは、争いを起こし、愛はすべてのとがをおおう」  (箴言10:12)


新約
 「するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、『先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』。彼に言われた、『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか』。彼は答えて言った、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』、また、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』とあります。彼に言われた、『あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすればいのちが得られる』。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、『では、わたしの隣り人とはだれのことですか』」  (ルカ10:25-29)


   日本には長い鎖国の歴史があり、また島国で国境線がありません。そのため閉鎖的国民性をもち、外国人との友達関係が発生しません。1992年ドイツに行った時、隣近所に挨拶に行ったら一軒の家で、「金曜日に私の誕生祝いがありますから、いらしてください」と言われました。いかに隣人とは言え、今日初めて会った外国の人間です。私たち日本人なら、誕生祝いと言えば、ごく身近かの人を招くだけでしょう。ドイツの場合、それは全世界に開かれた兄弟姉妹関係です。そのように日本人の人生観は狭いのです。今日の聖書に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と言われた律法学者は、自分の立場を弁護しようと思って、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」とイエスに言いました。この律法学者からすれば、隣人とは同胞イスラエルだけで、外国人まで愛する必要はないと考えたのでしょう。この律法学者の態度、それはまた日本的人生観でもあります。日本人には、「よそもの」という考えがあります。田舎にゆくほどひどいですが、しかし、キリスト教的ヨーロッパと比べると、都会でも日本人は身内とよそものを分けて考えています。沖縄では、「出会ったなら、その日から兄弟姉妹」という言葉がありますが、そう言うわけにはゆきません。

   日本には聖徳太子の言葉として、「よろず和をもって尊しとせよ」という言葉があります。これは決して「世界中の人と平和に暮らしなさい」という意味ではありません。仲間うち身内の話なのです。日本人は、ある何人かが話している時、ほとんど違った意見をはきません。なぜなら「よろず和をもって尊しとせよ」、集団内の和合を主とし、そこでみな仲良く、あまり異なる意見をはかず、たいがいの事は我慢します。そのため集団の中で、反対意見が出しにくいのです。ドイツ人などは、どんどん意見を言います。イスラエルでは、「シャローム(平和でありますように)」という挨拶が日常的です。その場合、平和とは、互いに争っている民族、隣人が、憎しみを越えて平和にすごすことを意味しています。決して身内同士の「和」ではありません。

   日本では意見を戦わせて、真理に到達することを貴ぶのでなく、集団の和合の方が大切なのです。そこでは「すべてのこと和が第一」で、正義とか真理は二の次です。結論的に言えば、そこには生きた正義の神が存在しないのです。日本人の人生観には、生ける絶対者である神はなく、ただ人間の間でのことです。日本では神も人間なのです。八幡神社の祭神は八幡太郎義家です。そこでお参りすることも、人間的御利益が中心です。日本では宗教信仰も、人間的臭いがしています。そこでは「私の隣り人とはだれですか」、それは身内同士です。そこには真理も正義もありません。それで全世界とこのグローバリズムの時代やってゆけるのでしょうか。日本人は、この狭さから脱して、国際人にならなくてはならないのではないでしょうか。

   今日の聖書の箇所の次に「よきサマリア人のたとえ」がでてきます。この律法学者の「わたしの隣り人とはだれですか」という問いに答えたイエスの解答です。サマリアでは、BC721年アッシリアによって北の王国が滅亡した後、移住などで外国から人が入ってきて、純粋なイスラエルの宗教と言いがたい面が出てきて、厳しく正統派ユダヤ人と対立していました。しかし、その敵対関係にあったサマリアの人が、倒れていたユダヤ人を助けて介抱し、宿に連れて行って、お金を出し、これでこの人を見てやってくださいと頼みました。「一体隣りとはどちらの人ですか」。ここでは国境も宗教的違いも、民族も言語も問題ではありません。人は皆兄弟姉妹ということだけが問題でした。私たちのうちにある壁、いろいろな壁があります。階級的壁、男女の性別の壁、年代、世代の壁、田舎都会の壁、あらゆる壁を乗り越えて、イエス・キリストは私たちのただ中にこられました。「あなたがは皆、兄弟姉妹である」と。
「わたしの父母、わたしの兄弟姉妹とはだれのことか、わたしの父のみ旨ねを行う者、これすべて兄弟姉妹である」(マタイ12:50)
とさえ言われました。

   もちろん信仰者は キリストを知ったことで、かなりこの壁は崩れていると思います。しかし、日本人であるという別な壁があります。私たち日本人がもつ共通の欠点、それは「わたしの隣り人とはだれですか」の問いに象徴されています。

   「罪」とは、「四つの非ず」と書きます。「神は非ず」、「隣人は非ず」、「われは罪人に非ず」、「世界は一つに非ず」です。そしてこの罪から救うもの、それは「愛」にほかなりません。「愛」は、「受ける心」と書きます。「神を受け入れ」、「隣人を受け入れ」、「私が罪人であることを受け入れ」、そして「すべての人を受け入れて」、すべての壁を克服します。
   


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