7月22日(日)「祈りの力」説教要旨

           聖句
旧約
 「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところにきて言った、『主はこう仰せられます、家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』。そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、『ああ主よ、わたしが真実と真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください』。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、『引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつわたしはあなたのよわいを十五年増す』」   (列王下20:1-6)


新約
 「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」  (マルコ11:23-24)


   祈りを語る時、私が感動をもって覚えるのは、今日の旧約聖書の箇所です。ヒゼキヤ王に預言者イザヤが「あなたは死にます」と言ったのに、ヒゼキヤは主に祈り、病のいやしを求めました。すると、まだイザヤが中庭を出ないうちに、神は「見よ、私はあなたをいやす。その齢を十五年増す」と言われました。「神はある人を救いに予定し、またある人を滅びに予定する」と言う二重予定説は決して聖書の真理ではありません。今日のヒゼキヤの祈りをごらんなさい。神は預言者を通じて、必ず死ぬとさえ言われたのに、ヒゼキヤの祈りを聞いて、健康をあたえるどころか、齢を15年増すと言われました。神は冷たい法則ではありません。自由な、生きた人格的な方です。私たち人間が驚くほど自由に決定をも変える神、そこに私たちの祈りの根拠があるのです。もしすべてが予定してあるなら、祈ることは無駄でしょう。生ける神は変わる神であります。もちろんその永遠なる愛は変わりませんが、その現れ方は変わります。この神の自由な姿こそ私たちが祈る根拠なのです。

   イエスの祈りについてのたとえ話、一つは「夜中にきた腹ぺこの友人のため戸を叩く人のたとえ」(ルカ11:5-8)、もう一つは「悪い裁判官のたとえ」(ルカ18:1-8)です。まず第一、友達が旅で腹ぺこで頼って来た、しかし、自分の家にあいにくパンがない、その時、もう一人の友人のところの戸を叩き始めます、しかし、もう寝てしまって、あしたにしてくれと言われます。このたとえの中心は、
「よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」(ルカ11:8)
です。この「しきりに」という言葉は、「厚顔、なりふりかまわず」の意味です。祈りとは、「私は洗礼を受けて何十年もたちます」と言った神さまとの友人関係ではありません。未信者でも、子供でもよいのです。問題は「しきりに願うので」、神さま下さいと熱心に臆面もなく執拗にねばりづよく祈ることです。言ってみれば、神さまはコネや地位はきかない、神にきくのは、ただあなたの熱心さだけだということです。

   もうひとつの悪い裁判官のたとえでは、「神を恐れず、人を人とも思わない」裁判官が出てきます。それがキリスト者が祈ろうとしてひざまづく時のまわりの世間の姿だというのです。私たちのまわりには、「神を信じない、そして同時に人を人とも思わない」勢力が支配しています。それを「運命」ととっても、現実の悪い独裁政権ととってもよいし、私たちに切り開けない悪い状況と考えてもかまいません。ともかくこの悪い裁判官は神を信じないのですから、また人を人とも思わないのですから始末が悪いです。けれどもそれとは対照的に、ここに出てくる祈りの人やもめは、弱い立場にいました。彼女は、財産もないからわいろも使えず、つてもないからだれかに頼むわけにもいかず、ひとりで出掛けて行って、訴える以外にありません。それが祈りだというのです。悪しき世界の中でも、ただ信じて突き進む熱心、それがやもめの祈りです。悪しき裁判官は最後に言いました。「私は神を信じない、人を人とも思わないが、このやもめは日夜しつこく言ってくるのでうるさくてしょうがない。彼女のためになる正しい裁判をしてやろう」と。悪い裁判官が悔い改めて良い裁判官になったわけではありません。依然としてこの世はこの世であります。ところが、その悪い裁判官が良い裁判をするのです。悪しきこの世から、正しい神の裁判が出てくるのです。それはあなたの単純素朴な、しかし、熱心で執拗な信仰だというのです。「スイスは人間の混乱と神の摂理によって」今日あると言うように、回りの混乱の世界、悪しき裁判官の支配する世界、その混乱の中に、一筋の神の摂理を信じる、いちずな祈るやもめ。それがキリスト者の祈りです。

   今日の新約聖書の箇所ではこう言われています。
「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこであなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」
ここに言われているのは、祈りの方法論ではありません。また私たちの側の才覚のあるなしでもありません。あなたの心に固く信じて疑わないならばです、そして祈って願うことは、すでにかなえられたと信じなさい、そうすれば得られる。この単純率直な真理以外にありません。
   


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