7月29日(日)「受け入れなさい」説教要旨

           聖句
旧約
 「バラムは主の使いに言った、『わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、わたしは帰りましょう』。主の使いはバラムに言った、『この人びとと一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない』。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った」   (民数記22:34-35)


新約
 「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」  (ローマ15:7)


    神は口を一つ、耳は二つ造られました。それは「語るよりも聞くことを主とせよ」という意味です。今日の聖書で言えば相手を「受け入れる」ことです。それは相手の我がままを承認することとは違います。情動を受け入れる、「あなたの気持ちはよく分かる」という理解を示すことです。それは、話をうまく進める方法やテクニックではありません。「キリストも私たちを受け入れてくださったように」、誠実に相手の言うことに耳を傾け、その人を真実に理解しようとする、まさに信仰の事態です。そしてその結果「神の栄光が現れる」のです。牧会カウンセリングは信仰の行為です。それは「聞く」という単純なことですから、信仰と誠意と愛があれば、だれにでもできることです。「空の鳥が空気を必要とするように、お魚が水を必要とするように、私たち人間はみな受け入れられることを必要としている」(モルトマン)。

   相手が心の病んでいる人でも、病名を思い浮かべてはなりません。いろいろな病名は精神科の医者が、便宜上つけた名前で、現実にそこに苦しんでいるが人いる、このことのみに目を向けることが大切です。その際、相手に敬意をもつこと、その人は優れたものをもつていると信じること、そして愛をもつこと、それは同情ではなく、対等の愛をもつことが肝要です。どんな子供でも、下に見てはなりません。おかしなところがある人でも、そこには他と違った優れたところがあると信じなさい。キリストは取税人、罪人を受け入れました。その時、「悔い改めたら」とか「改心したら」という条件はつけません。キリストは罪にもかかわらず、悪い点も受け入れてくださったのです。したがってその時、道徳的になるのは一番いけません。放蕩息子の父親は、「これでよく分かったか」などと道徳的説教をし始めませんでした。十字架のイエスは隣の盗賊に、悔い改めを迫りませんでした。ただ「今日あなたはわたしと一緒に神の国にいる」と言っただけでした。このことは認知症と言われる人でも、全くあてはまります。
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(ローマ14:1)
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:5)
「信仰義認」ということは、十字架のゆえにキリストが私たち受け入れてくださったことです。それゆえに「私たちも互いに受け入れあって、神の栄光をあらわす」のです。

   極力相手を理解しようと努めなさい。たとい意見の違いがあっても。いや意見の違いがあるからこそ、理解しようと努めなさい。「あなたと一番意見のあわない、あなたの目には誤った考えをもっていると思われる知人を選び出してごらんなさい、そして相手の見方、信念、気持を、鋭く正しく言えていると相手が認めてくれるまで話してご覧なさい。十回試みて九回は失敗するでしょう。なぜなら、あなたの相手に対する評価が、あなたの表現に入り込んでくるからです。したがって、真の共感は評価的あるいは診断的特質から切り離されたものです」(ロジャース)。「言葉でなく彼自身に耳を傾けるとき、そして私が彼の一個人としての意味を聞き取ったことを彼に知らせる時、多くのことが生じます」。「私は自分が他人を巧妙に操って私のイメージにあう人へと改造しようとしている、私の弟子にすることが嫌いです」「他人が本当に真実において一致している時、私を力づける、その瞬間に一人の中にある深い真実が他人の中にある真実に出会い、ブーバーがいうように『私-汝関係』が生じるのです。しかし、それが時折生じることなしには、私たちは人間として生きることはできないのです」。人間が所有している、他者を大切に思う基本傾向は、『あなたは私と同じ考えだから大切に思う』ではなく、『私と違っているあなたを尊敬し、大切に思う』方向で生かされるでしょう」。ただ多元は途中です、必ず正しい真理に到達するはずです。それが今は分からないだけです。

   対話にはマイナス面があります。それは断絶です。罪の現実です。聖書を見ても、対話に造られた人間の断絶が記されています。いや、聖書の歴史は、この罪、断絶の歴史と言っても過言ではないでしょう。アダムは、「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と言ったエバと断絶します。聖書の歴史は、この断絶、破れから始まっています。今日、日本でも離婚や別居が増えてきました。この対話は、いつも破れ、断絶の危機にさらされているのです。しかし、この破れは、単なる自我の孤立とは違います。他者のある破れにほかなりません。このような私と汝の「事実関係が背かれることはあるでしょう。けれどもこの関係が破棄されることはありません」。つまり、破れている時も、人間の根本的関係が「私と汝」であることは、生ける神において変わりなく存在し続けるのです。
   


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