8月12日(日)「権威と権力」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。彼らは神の栄光を草を食う牛の像と取り替えた」   (詩編106:19-20)


新約
 「イエスは彼に、『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた。そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にあるものですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に、行けと言えば行き、ほかの者にこい、と言えばきますし、また僕にこれをせよと言えば、してくれるのです』。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、『よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない』」  (マタイ8:7-10)


    「権威」というとよい意味に使います。「権力」というと、独裁者を連想させ、ふつう悪い意味に使います。いたずらに権力をふるう政治家はけぎらいされるだけです。一体人間のもつ力は、すべて神から与えられたものです。
「神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」(ローマ13:1)
昔、東北大の名誉教授が千人からの人に話しているのを聞いたことがあります。その小柄の先生が、静かにじゅんじゅんと説く言葉に権威があり、皆を魅了しました。権力とは外なる力ですが、権威とは、むしろ内なる力です。その人が何十年と経験したこと、苦労し積み上げてきたこと、学んだことすべてが凝縮して、その人の内面から出てくるものが「権威」にほかなりません。それはまた「信仰的」とも言えます。神を信じている人は権威をもっています。黙っていても、それはその人の信仰の生涯から滲み出てくるものです。それに対して権力は、偶像です。今日の旧約聖書にイスラエルが出エジプトの時、モーセが山に行って十戒を受けている時、下で人びとは金の子牛をつくって踊り狂っていました。あたかも金中心の現代社会を象徴するようであります。権力というものは、また金力も偶像に過ぎません。一時的で恒久的なものではありません。偶像は滅びます。  ふつう「権力をふるう」と言いますが、決して「権威をふるう」とは言えません。「権威はおのずから備わる」もので、自分で行使することはできません。その輝きは神から来ます。  今日の新約聖書の箇所では、ローマの百卒長の僕が重い病気でした。これは言葉の権威ということを自分の具体例で表したものです。私たちの信仰もまた神との関係は、「神の言葉」を通してです。キリストは「神の言葉」と言われ、それを伝えた聖書も神の言葉と言われます。そしてその説きあかしの言葉が説教です。すべて私たちの信仰は、言葉の権威に基づいています。礼拝はこの言葉によって慰めを受け、力づけられ、勇気を与えられ、生きる希望を与えられます。言葉そのものに力があるのではありません。その言葉に聖霊が加わっているのです。  ドイツのある町で、戦争で全部破壊されました。人びとは意気阻喪し、誰ひとり立ち上がれません。その時、一人の信仰者が、「キリストは死んでよみがえられたのだ、私たちも立ち上がろうではないか」と叫びました。イエス・キリストの復活の信仰が実際の苦難の中で生きたのです。それは聖霊のなかにある神の言葉の力です。そこに権威がありました。その神からの力が、人びとを立ち上がらせたのです。私たちの人生の中にも、似たようなことがないでしょうか。権力ではない、神から来る権威が、私たちを生かし、立ち上がらせるということが。
   


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