8月19日(日)「帰る」説教要旨

           聖句
旧約
 「それゆえ主はこうおおせられる、『もしあなたがたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる』」   (エレミヤ15:19-20)


新約
 「悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。『家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい』。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた」  (ルカ8:38-39)


   キリスト者は自分たちのことを、「地上では旅人、寄留者」と言います。キリスト者になって、私たちは地上の故郷を失いました。地上に完全な安住の地はないからです。キリスト者はまた手放しで喜んだり、感心したりしない人です。なぜなら、永遠の世界を知らされ、そこに行きつくまで完成はないからです。信仰者は、「永遠なるもの(神の国)を知りました」。それはキリストによって到来するすばらしい国です。永遠に目が開かれたゆえ、地上のものを絶対と見ず、すべてを相対的と考える、それで信仰者はいつも地上では寄留者です。その目は来るべき神の国にそそがれています。これを将来的神の国(将来的終末論)と言います。永遠は今この罪深い世界にはない。では今は仮の世か、そうではありません。今は、その永遠の世界へ到る一里塚です。賛美歌にあるように、「ゆくすえ遠く見るを願わじ、主よ、我が弱き足を守りて、一足また一足、道をば示したまえ」(賛美歌288)であります。帰る御国は将来にあり、今はその途上で、地上には、完全なものはないゆえ、不完全な罪をもゆるすのです。御国が来る時、それらは良いものに変えられると信じるからです。

   しかし、若い人は将来があるから将来的終末論も結構ですが、もう死期が近い人はどうでしょう。将来的終末論と共に、現在的終末論があります。天国はキリストと共に来た、それで今ここ(キリストを信じるところに)神の国がすでに来ている、失望と絶望に満ちた、その闇を貫いて、キリストの十字架と復活のゆえに、現在神の国はあなたと共にある。
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また見よ、ここにある、あそこにあるなどとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』」(ルカ17:20-21)
また十字架の上で、犯罪人が「主よ、御国に入る時、このわたしを覚えておいてください」言われた時、イエスは、「あなたは今日わたしと共に天国にいる」と答えられました。これが現在的終末論の根拠です。なんと慰めにみちていることでしょう。

   この現在説だけだと、怠け者になるため、今、将来終末論があります。多くの未熟、罪深さを残している自分が、今、永遠によりたのみ、戦って御国に帰ってゆくのです。しかし、この二つの関係は、どうなのでしょう。神の国に現在と将来と二種類あるわけではありません。私たちが自分の今ある状況に目を向ける時、そこに現在的終末論が広がるのです。世界に目を向け、歴史に目を向ける時、将来的終末論が開けてくるのです。現在婚約している男女は、将来の結婚を夢見ております。しかし、別人ではありません。同じ人間の現在と将来です。これと似ています。

   しかし、今日の旧約聖書を見てください。ここでは「帰る」は神のもとに帰るのです。あの放蕩息子が、目覚めて父親のもとに帰るように、私たちは自己中心の滅びの穴から、悔い改めて、神のもとに帰るのです。その時、神は私を「神の口」としてくださるし、また堅固な城としてくださるのです。私たちにとって「帰る」とは、信仰の行為であります。その時、私の言葉は神を語り、私の行為は神の城壁とされるのです。

   新約聖書はどうでしょう、「悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言ってかれをお帰しになった。『家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい』。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた」。ここには、これまで否定されたと見えた、地上の「故郷、家」が大切なものとして出てきます。故郷を忘れてはいけません。「家に帰って」。つまり、すぐ近くの人を伝道すべきではないでしょうか。そうでないと抽象的なります。ここでは今まで見えなかった、自分の家が主題です。したがって「帰る」は、自分の家に帰るのです。何のために、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。
   


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