8月26日(日)「しるし(象徴)」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂からはえたものを食べ、二年目にはまたその落ち穂からはえたものを食べ、三年目には種を蒔き、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べるであろう。ユダの家ののがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶであろう。すなわち残る者がエルサレムから出てき、のがれた者がシオンの山から出て来るであろう。主の熱心がこれをされるであろう」   (列王下19:29-31)


新約
 「そして彼らに言われた、『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる』」  (マルコ16:15-18)


   今日の旧約聖書において、「しるし」とは、次のことです。「ことしは落ち穂からはえたものを食べる」、つまり豊作の正反対、ほとんど実りなく、ただ落ち穂から食べる、「二年目にはまたその落ち穂からはえたものを食べ」、やっと「三年目には種を蒔き、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べるであろう」。たとえば、開拓伝道していて、あるいは仕事で初めの年ほとんど実りはない状態を考えてみましょう。それなら見込みなし、希望も将来性もないかというと、「ユダの家ののがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶであろう」。そこに「のがれて残る者」がいる、必ずいる。教会もそうです、あらゆることがそうです。明治中期、長い無牧でさびれた伊達教会を支えたのは、一人の残された一信徒でした。彼は年報の最後に「ほかの人は名のみにして、ただ一人祈りおり候」と記していました。その「残りの者」が「下に根を張り、上に実を結ぶ」、これが神の「しるし」だというのです。これは希望を失っていた人びとにとっての励ましではないでしょうか。三年目にやっと種を蒔くことができる。多くの無駄になるような経験を通して、初めて「下に根を張り、上に実を結ぶ」。ただ注意すべきことは、「主の熱心がこれをされるであろう」と結ばれていることです。人間の熱心や景気つけ、励ましや慰めではありません。神の熱心、主の熱心がこれをするのであります。

   私たちには偉大な業はできません。むしろ、失敗続きかもしれません。それでもやっと三年目に少し芽をだすかもしれません。私たちにできることは、ほんの「しるし」に過ぎないものでしょう。しかし、それは何かを「しるし」づけ、「指し示している」のです。パンとブドウ酒それは地上のいやしい物質にすぎません。しかし、それはもし神に用いられ、信仰をもって受け入れられるなら、十字架の愛の御業を指し示している「しるし」となるのです。「しるし」の反対は「ほこり」です。「しるし」でなければ、こんなよい業を行ったと自分を誇る行為になってしまいます。その時、その行いは、自分を表す行為にすぎず、神様をあらわしません。

   新約聖書のマルコの教えでは、「しるし」とは、神が信じる者を通して行われる奇跡です。ではなぜ信仰者の業が、「しるし」なのでしょうか。「彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。ここにいくつかある人間には到底できそうにもないことは、「わたしの名で」、つまり神の御名で行われるからです。あの美しの門でペテロが、足のきかない人に、
「金銀はわたしにはない、わたしにあるものをあなたに与えよう、ナザレのイエス・キリストの名によって歩め」(使徒行伝3:1-10)
と言いました。そのように奇跡は神が必要に応じて行ってくださるものです。その場合、ペテロのように「金銀はわれになし」、私は無力にすぎない、しかし、神のしるしとして奇跡が起こるのです。「信じる者には、このようなしるしが伴う」。かたく信じて疑わなければ、神のしるしが伴う、それは私たちが自分の手ではできないもの、自分の力では見いだせないもの、「信じる者に伴う、神のしるしです」。

   私たちの回りには、希望を失わせる状況がありあまるほどあります。しかし、「スイスは人間の混乱と神の摂理によって今日ある」ことを忘れないでください。あなたの無駄と見える努力を続けなさい。主の熱心がその実りを生む時が来ます。絶望が希望に変わる時が来ます。必ず来ます。「信じる」ということは、貫くことが必要です。「信じる」とは、「信じぬく」ことです。一回信じて駄目だというのでなく、何回も何回も繰り返し、原点に帰って信じぬく、あるいは「信じきる」のです。「信じる」ことは人間の業ですが、「信じぬく」、「信じきる」という時、もはや人間の業ではなく、神の業を必要とします。信じることが、人間の業であったのに、神の業になるほど、信じぬくのです。だから信じることは、「しるし」です。しるしとは完全な神の業ではありません。神の業を指し示すのが、「しるし」です。「これはほんのおしるしです」と言って、病人にお見舞いの品を届ける人は、その品物は私のあなたへの愛そのものではありません。しかし、その愛情のしるしです。愛を表しています。愛を部分的に含んでいます。あなたの信仰もそうです。それは完全な神の御業ではありえません。しかし、その「しるし」であります。また「しるし」となることはできます。また「しるし」とならねばなりません。
   


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