9月2日(日)「徹底した愛」説教要旨

           聖句
旧約
 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」   (ホセア6:1-3)


新約
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互いに愛しあうべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」  (Ⅰヨハネ4:10-12)


   「徹底した愛」とは,「私たちの愛はなまぬるく、不十分だから、もっと徹底して愛しなさい」という意味ではありません。もしその通り、私たちのこれまでの愛をもっと強めて、徹底してゆくとなると、「私はこんなに愛した、ここまでやった」と誇り、愛の傲慢になるでしょう。愛とは最も謙虚なものなのに、正反対のものに、極度の傲慢になるかも知れません。今日の新約聖書に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあります。「徹底する」とは、考えが完全にひっくりかえること、私中心から神中心に変わることです。「わたしたちが神を愛したのではない」と、「徹底した愛」は、私を中心としません。「愛というのは、私が神を愛したとか、隣人を愛したとかいうのではない」。反対に神がこの罪深い私を愛された。私は愛の主体ではなく、むしろ「愛されている者」です。  

   一万タラントいわば一億円を王さまから借金した人が、返せなくなり、王さまは全部ゆるしてやった。その帰り道、友人でたった一万円貸した男に、「金を返せ」。王さまはこの人をしかった(マタイ18:23)。「ゆるされている」ということは、大変大きなことです。広島の教会の副牧師は、たえず「ゆるせ、ゆるせ、教会はゆるしを説きながら、たえず人を責めている。ゆるせ、ゆるせ」と言っていたそうです。「ゆるし」ほど大きなことはありません。しかし、たいがいゆるさず、ひとを責めています。ひとを責めるということは、自分自身が「ゆるされている」ことを忘れている行為です。あの王さまから一万タラント借りて返せなかった人と同じです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」、この転倒、ひっくりがえりそれが、信仰の第一歩であります。「徹底した」とはこのひっくりがえりを徹底するのです。 さらに聖書は言います。その神の愛は、神が御子の十字架を通して、私の罪のためにあがないの供え物をしてくださったこと、「ここに愛がある」と。愛と言うとき、私たちは自分自身を見るのでなく、友人や隣人を見るのでもなく、私の罪のために、十字架にかかり、「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが分からないのですから」と祈られたイエスを見るのです。愛が徹底しないというのは、私たちが、自分の罪が分からない、分かるけれども、忘れているからです。罪、しかも、ひとの罪ではなく、この自分自身の罪が分かる時、不思議なことに同時に、恵みが分かるのです。私たちは、「罪」というといつも他人の罪です。彼はひどいことをした。こうして人を責める毎日です。ところが、そうではなく今、ここで認めるのは自分自身の罪にほかなりません。Ⅰペテロには
「愛は多くの罪をおおう」(Ⅰペテロ4:8)
とあります。それは愛というプラスが罪というマイナスを覆い隠す意味です。十字架の愛は、私たちの罪を負うことによって、同時に私たちの罪を覆い隠してしまうのです。覆い隠すのですから、罪はなくなったわけではありません。しかし、キリストの十字架の愛の陰に隠れているのです。罪はあるけれども、十字架のもとに「ゆるされてある」のです。私の罪と共に知る愛、それが徹底した愛なのです。

   そこで今日の旧約聖書の御言葉が生きてきます。「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。ここには、イエス・キリストの十字架の愛に包み隠された私たちの罪が述べられています。さてそこで、これまで強調されて来たのは、私たちに対する神の愛、十字架の愛でした。では私たちの愛はどうなるのでしょうか。Ⅰヨハネの後半を見てください。

   
「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互いに愛しあうべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」
これが徹底した神の愛に応答する私たちの愛にほかなりません。この神の徹底した愛は、私たちの中に変化を生みます。必ず生みます。いや生まざるをえません。それはようやく互いの愛に目覚めることです。「神を見た人はまだひとりもいません」、しかし、もし私たちがこの神の十字架の愛に目が開かれて、隣人を少しでも愛し始めるなら、それは神への応答した愛にほかなりません。その時、不思議なことに私たち誰ひとり見たことのない神が生きて私たちの中にいらっしゃるのです。目で見えないけれども、愛を通して神は私たちの中に臨在されるのです。このことは新しい信仰へと進ませる動力となります。

   そこで二つのことが起こります。一つは、「神が私たちの中にいます」、つまり神の現臨です。もう一つは、「神の愛が私たちのうちに全うされる」のです。「全うされる」とは、「徹底される」ことです。神さまの業が私たちの中に起こって、私たちを変えてくださるのです。徹底した愛へと。
   


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