9月9日(日)「すべてを見通すことは不可能」説教要旨

           聖句
旧約
 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」   (伝道の書3:11)


新約
 「彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は、そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。『だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」  (ローマ11:31-36)


    「永遠というものがあると聞いて、教会に来た」と言う求道者がいました。ふつう病気とか不安とか具体的問題で教会に来る人が多いのですが、「永遠」という哲学的問題で教会に来る人はまれです。しかし、旧約の聖句には「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」とあります。「時間を前後に無限に延ばしたもの」が永遠ではないではありません。相対的なものをいくら延ばしても、絶対的なものに到達しません。「永遠」というのは、時間とは質的に違うものです。その「永遠を思う思い」は神からの賜物だというのです。とすれば、「永遠」なる思いは、永遠なる神さまから来る。これは逆に言えば、「永遠」なる思いが私たちの心にあるということは、ある意味で、永遠なる神さまがいらっしゃる証拠です。しかし、聖書は言います、「それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」と。永遠を思う思いはあるけれども、その永遠の正体を、人間は自分の力で見極めることができないのです。

   しかし、
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」
とあります。この言葉の前に
「黙るに時あり、語るに時あり、愛するに時あり、憎むに時あり、戦うに時あり、和らぐに時あり」
と来て、それを受けた言葉です。とすると、私たちの人生に、いろいろな瞬間、いろいろな時があります。「黙る時、語る時、愛する時、憎む時」、その一つ一つの瞬間、瞬間が、いろいろな体験を含みつつ、その一瞬一瞬が、神につながる永遠で美しいというのです。とすれば、皆さんの毎日、今の一瞬一瞬が、神につながる永遠で、それは実に美しいのです。もちろん、いいことばかりではありません。失敗もありましょう、失望も、いや絶望すらあります。しかし、それぞれの経験が神につながる永遠なのです。これを現在的終末論と申します。

   最近テレビの「宗教の時間」を見ました。「する人、いる人、なる人」という題で、オーストラリアの婦人牧師さんの話でした。親しい人が認知症になりました。その牧師が言うには、人間は何かを「する人」という面がある。「する人」の面では、認知症の人は何もできないから、駄目な人というレッテルを貼る。しかし、人間は「する人」の面だけでなく、「いる人」、「なる人」の面がある。「いる人」とは、そこに存在している人としての価値です。そしてその牧師さんの結論は、そこに「いる人」、その存在としての人間は、たとい何もできなくても、尊厳をもっている、特に人間の霊的にそこに人間としてあるものは変わらない永遠なる神の贈り物として、その瞬間、瞬間の存在は貴く、霊的なもので、その面を見ると、「神の与えるものは、皆その時にかなって美しい」と言えるのです。その時、そのそこに「いる人」は、新しい人間に「なる人」なのです。

   うつの場合でも同じなのです。基本的な人間の在り方は、そこに存在する人間が貴く、霊的に見るとき、「神のなされることは、皆その時にかなって美しい」。「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足また一足、道をば示したまえ」(賛美歌288番)。今の一歩、それが神の永遠につながる美しい一歩なのです。終わりまで見極める必要はありません。霊的ということは、そこに「いる人」の価値を見いだすこと、それは人間の本当の姿を見いだすことです。そして同時に、その人はそこにいます神を見いだしたのです。そしてそこに最も美しい時を見いだしたのです。
   


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