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9月16日(日)「シメオンとアンナ」説教要旨
  聖句
旧約 「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは生まれた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた」   (創世記21:1-3)
新約 「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救い主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたはみ言葉とおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります』」  (ルカ2:25-32)
  今日の新約聖書の箇所はクリスマスのおとずれです。クリスマスにはマリアと幼子イエスが出てきます。いわば若い人です。けれどもクリスマスには若い人だけが出てくるのではありません。むしろ年とった人が出てくるだけでなく、主役を果たしています。ここに出てくるシメオンとアンナ、この二人には大切な共通点があります。二人とも老人ですが、しかも老年はくりごとが多いにもかかわらず、この二人には、「わたし」ということがありません。ただ神をほめたたえ、幼子と両親を祝福し伝達するために生まれたような人であります。そして決定的な共通点は、二人が自分の生涯の不利な点まで、神の恵みに変えたという事実です。
  「シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、主よ、今こそ、あなたはみ言葉とおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから」 人に備えられた神の救いを目の前にした時、死にゆく者にとって、死は、神の平和の門であります。多くの人びとは死を恐れています。考えないようにしています。しかし、それは必ずだれにもやって来ます。しかし、救い主に出会った人は、平和に死ぬことができます。シメオンは、それだけでなく、イスラエルの慰められるのを、待ち望んでいました。ただ自分だけの慰めではありません。周りの人を含めた国全体、国民全体です。またただ待っていたのではありません。単なる希望や願望ならどこにもあります。『待ち望む』とは期待しつつ待つことです。私たちはキリスト者であっても、いつも期待よりも、あきらめが多く、ただ願いながら確信していないことが多いのではないでしょうか。しかし、シメオンのように期待しつつ待ち望む者に、神は最大のものをくださいます。
  一方アンナは不幸な人生を送りました。この人の使命はシメオンのように祝福ではなく、救い主の伝達、宣教です。「この老女もちょうどその時近寄って来て、神に感謝をささげ、そしてこの幼子のことを、エルサレムの救いを待ち望んでいるすべての人びとに語りきかせた」 とあります。シメオンに与えられた祝福とアンナに与えられた宣教のつとめは、教会の使命であります。そしてこの二つはどんな時でも、どこでもできます。一銭もかかりません。だれにでもできます。ただ信仰さえあれば、歳をとってもできます。能力はなくてもできます。またアンナのように不幸な生涯の人でもできます。
  では祝福とは何をすることでしょうか。「あなたに神の恵みがありますように」と祈ることです。祝福するとは、私たちの人生で大切なことです。なぜなら、私たちはふだん「祝福」という言葉は使いませんし、したがって人を祝福することもめったにないからです。「幸福」ということばなら、やたらに出てきます。しかし、幸福と祝福とは、天と地ほども違います。幸福は自分について使えます、「私はきわめて幸福だ」というように。しかし、祝福は、決して自分について使えません。「私はきわめて祝福だ」とは言いません。「私自身を祝福する」ともあまり言いません」。祝福は常に他者に向いています。利己的なものの正反対です。
  次にアンナの宣教と言っても、それも自分に宣教するとは言えません。つねに他者のためです。このアンナは、その生涯が不幸な人でした。そして不幸であるだけに、この人は人に福音を伝えることができるのです。もし反対に彼女が、世にもまれな金持ちで蝶よ花よとはなやかな暮らしをしていたなら、彼女の語る言葉に力はないでしょう。あの不幸なアンナが、その生涯の不幸を乗り切って、今すばらしいメッセージを伝えたとなると、聞く人は耳をそば立てる のではないでしょうか。不幸から出る言葉には力があります。説得力があります。
  このシメオンにしてもアンナにしても、共通している最後の点があります。それはシメオンはこの幼子キリストをうでに抱いて祝福しています。アンナはこの幼子のことを語り聞かせたのです。二人の中心に立っているのはイエス・キリストであります。その生涯にイエス・キリストが立っているなら、あなたは最高に幸せです。そのお方がすべてです。そのお方は決して私たちを裏切らないでしょう。
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