9月23日(日)「全和解」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に、見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた」   (イザヤ65:1-2)


新約
 「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」  (Ⅰテモテ2:4-5)


   「全和解」とは、「最後にはすべての人が救われる」という真理です。その反対は「二重予定説」です。それは「神はある人が救われ、他の人が滅びるように二重にあらかじめ定めた」という考えです。もし二重予定が真理だとすると、矛盾が起こります。「神は徹底した愛のお方ではないのか。滅びる者があるなどおかしい」と。しかし、反対に「全和解が真理だとするなら、どうせすべての人が救われるなら、何も信仰する必要はないではないか」と言われます。どちらが正しいのでしょうか。今日の新約聖書の箇所に
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」
とあります。これ一つで全和解の真理を示すに十分です。ほかにもあります。

   
「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである」(エペソ1:10-12)
しかし、それに反するような、二重予定説を支持すると見られる言葉があります。

   
「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。ではわたしは何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』」(ローマ9:13-15)
しかし、このローマ書9-11章は「ユダヤ人の救い」を論じているので、最後の結論は、
「あなたがた(異邦人)が、かつては神に不従順であったが、今は彼ら(ユダヤ人)の不従順によってあわれみを受けたように、彼ら(ユダヤ人)も今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら(ユダヤ人)自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識の富は」(ローマ11:28-33)
となっています。 ここでは救いと滅びは、決してあれかこれかではなく、もっと複雑に入り組んだ相互関係(弁証法的)です、「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」。これをキリスト論的と申します。キリストは十字架において、すべての人の滅びを引き受けられました。それは十字架においてすべての人が救われるためにほかなりません。キリストにおいて滅びと救いは一つになっています。キリストは十字架においてすべての人の滅びを引き受け、それと共に、すべての人の救いが成就したのです。十字架ぬきに救いを考えることも、十字架ぬきに滅びを考えることも間違っています。キリストの十字架こそ、「全和解」と「二重予定」の矛盾を解く鍵なのです。

   Ⅰコリントにはそのことを次のように記します。

   
「かの日は火の中に現れて、それを明かにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(Ⅰコリント3:10-15)
ここではその人とその仕事を分けています。神は罪深い行為と罪深い人を分けます。罪深い行為は滅びるが、しかし、罪深い人は救われるとあります。こうして見れば、二重予定と全和解とは、相矛盾する、全く相いれない正反対のことではありません。二重予定は、罪の行為にあてはまり、全和解は罪を行う人にあてはまります。

    「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識の富は、そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」のであります。
   


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