9月30日(日)「わたしの羊を飼え」説教要旨

           聖句
旧約
 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」   (イザヤ53:4-5)


新約
 「彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に『わたしの小羊を養いなさい』と言われた。またもう一度言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの小羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし、年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そしてほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」  (ヨハネ21:15-19)


   イエスはまずペテロに「わたしを愛するか」と言います。「愛する」という言葉は日常生活では、はっきりと言葉にだして言うには、いささかはばかれる言葉です。「あなたは私を愛していますか」、一般にはこの言葉は心に思っていても、言葉にはあまりださないものです。それなのに今、イエスはペテロに直截に言いました、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。どう答えたらよいでしょう、「はい、私はだれにもまさってあなたを愛しています」とは、簡単に答えられないのではないでしょうか。そうです、ペテロも間接的な言い方でごまかしました。「わたしがあなたを愛することは、あなたご自身よくご存じです」と。しかし、イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われました。この言葉は、今日の私たちに当てはめると、「だれかがキリストを愛しているなら、そのことを示すために、隣人を愛することが大切だ」と言うのです。私たちにとって普通イエス・キリストを愛することは、イエスの十字架のあがないを受けて、イエスを信じ賛美することにならないでしょうか。しかし、ここでイエスが言われたことは、そうではなく、イエスを愛することは、他の魂の配慮をはじめることになるのです。教会員の中に二通りの人がいます。一つは自分の信仰で精一杯で、ただイエスを愛し、イエスを信じ、賛美する人です。しかも一種類の人は、隣人のお世話をし、その魂の配慮をする人です。後の方がイエスの御心にそうのではないでしょうか。イエスを愛するとは、世の小さな兄弟を愛することなのです。イエスは言われました、
「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)
と。しかし、その次にイエスがペテロに言われたことが大切です。
「イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし、年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そしてほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』
これは、ペテロがそんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。つまり私たちは自然に年を取る、そしてからだが弱る、自分で自分のことができなくなり、ついにひとの手を借りるようになる。つまり私たちは皆一人残らず、限界の中で生きているというのです。人間は無限の力をもっている訳ではない。必ず弱る時がくる、いや年を取らなくても、病気になれば、他の人の力を借りなくてはならなくなります。つまりこの弱さの中で、互いに愛して行かなくては生きてゆけないのです。しかし、私たちが不自由になって分かる真理というものもあります。からだが弱くなって、そのため主キリストが大きくなるというだけではなく、かえって「われ弱き時に強し」と言えることさえあるのです。それは何も遠くではなく、私の身の回りに起こることなのです。弱いとき強い時よりも、主に信頼し、真の強さが出ることがあります。その弱さ、衰えのところに、生ける神の現臨を感じさせるものがあります。それは「神の栄光を表す」のです。主イエスはそれに続いて、「わたしに従ってきなさい」と言われました。主に従うことが、その衰えを克服し、死すらも乗り越えて進むことのできる道なのです。主に従う道には、「老いる」ということはありません。それだけではありません。主イエスが「わたしに従ってきなさい」と言われ、「わたしの小羊を養いなさい」と言われる、その時、主ご自身が、私たちに必要な力を与えてくださるのです。 
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.