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10月28日(日)「リンゴの苗を植えよう」説教要旨
  聖句
旧約 「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」   (詩編127:1-2)
新約 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっとよい、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥じとはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」  (ヘブル11:13-16)
  「リンゴの苗を植えよう」いう変わった題の意味は、次のモルトマンの言葉を見ると分かります。「私たちの致命的な危機の瞬間に、聖書の希望の言葉は私たちに語りかけ、私たちを慰めます。私たちは神を信じるからこそ、この地上のために希望をもち、またその希望を放棄しないのです。私たちが神の到来を待つからこそ、この世界は大いなる将来をもっているのです。この希望をもって私たちは、いわば私たちが生きている終末の時の迫り来る恐怖をつきぬけて、神の新しい世界を見るのです。希望するということは、インドネシア語では、『地平をつきぬけて見る』ことです。私たち世界の迫り来る破壊を『つきぬけて』、神の正義と生命の御国を『見る』人は、今ここですでにこの来りつつある御国に対応して生きかつ行動し始めます。エルサレムがバビロニア人によって破壊された時、預言者エレミヤはアナトテに土地を買いました。それは生命に対する逆説的な肯定でありました。ルターは、『もし明日世界が滅びるとしたら、何をするか』と問われた時、『それでも私は、今日一本のリンゴの苗木を植えるであろう』と答えました。ですから、私たちもやはり今日、私たちのリンゴの木を植えようではありませんか」。
  これで今日の説教の題の意味はお分かりになったと思います。私たちの科学的世界観も、それなりの終末論をもっています。しかし、それは太陽が光と熱を失うとか星と地球がぶつかるといった希望のない恐ろしいものです。地上の相対的なものばかり見ていれば、そうならざるを得ません。今日の聖書を見てください。「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっとよい、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥じとはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」
  終末論ということが分からない人は、自分一個の死を考えてください。そしてそれと同じように、世界もやがて死ぬでしょう。しかし、ここで私たちは聖書を通して、永遠の世界、永遠なる愛の神がおられる。その方は、この有限な地上とかかわるためにイエス・キリストをお遣わしになった。その時、私たちはこの地上で天国へ到る旅人、寄留者となるのです。永遠なる神とその御国を教えられた私たちは、今まだ地上にあります。では天国に到達するまでは、仮の世界なのでしょうか。そうではありません。永遠なる神とその御国を教えられた時、この地上の一歩、一歩が大切になって来るのです。
  「明日、あるいは来月あなたの命はない」と言われたら、あなたは何をしますか。これが終末論の応用問題です。皆さん、私たちは自分と世界の限界を知るゆえに、いや限界のない永遠の御神から、そのことを知らされたゆえに、今、私たちのリンゴの苗を植えようではありませんか。永遠は遠いかなたにあるとも言えますが、しかし、それに目覚めた人にとって、それは今ここにあるとも言えます。その事を知って、今リンゴの苗を植えるその行為は、もはや消え去るものではありません。それは永遠の神の国を指し示す逆説的行為、象徴的行為、証しであります。
  ふつう神の国、終末を教えられた人は、 「われらいざ飲み食いせん。明日死ぬべければなり」と快楽主義に走るか、 天国が来ればすべてが解決する、それまでは何をやっても駄目だと、静寂主義になるかです。その人びとは、永遠の世界だけ知って、永遠と時間の世界の関係を知りません。絶対の世界を知っても、それと相対的な今の私たちの世界との関係を少しも知らないのです。永遠と時間、絶対と相対を全く関係のない別々なものと思っているのです。しかし、聖書では、永遠なる神はイエス・キリストにおいて時間の世界に来られました。絶対者なる神は、相対的な人の姿をとってこられました。この相対的な世界は、絶対のお方が愛しておられる世界にほかなりません。イエス・キリストを通して、永遠なる神は時間の姿を取ってこられました。そうだとすると、過ぎ行くこの時間の世界は、もはや仏教が言うように無常のはかない世界ではありません。イエス・キリストによってあがなわれた、貴い重大な大切な世界です。あなたのからだ、それは滅び行く、朽ちて行くからだではありません。イエス・キリストが自らあがなわれたからだです。その貴いからだを用いてあなたは、何かをすることができる。仕事とは、「仕える事」と書きます。「何に仕える」のでしょう。私たちのために死んでくださったお方の愛のゆえに仕えることができるのです。その時、一本のリンゴの苗木を植えるということも、意味をもってきます。
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