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11月18日(日)「信仰と愛」説教要旨
  聖句
旧約 「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)
新約 「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」  (Ⅰコリント13:12-13)
 信仰は神さまとの関係ですが、その神さまは、人となって十字架で私の罪を負われました。その時、神さまとの関係だけでなく、縦だけでなく、横の関係が出てきます。それが愛です。ガラテヤ書には「ただ尊いのは、愛によって働く信仰だけである」とあります。愛のない信仰はありえません。
 信仰も愛になると大変です。好きな人だけでなく、嫌いな人も愛さなくてはならないからです。しかし、イエスは言いました、「あなたの敵を愛しなさい」と。そんなことができるでしょうか。イエスは、「人にはできないが、神にはできる」と言われました。それで「あなたの敵のために祈りなさい」と言われたのです。キリストは、あなたのできないことを知っていて、「あなたのその敵のために祈る、つまり神の力を借りなさい」と言われたのです。
 愛は祈りへと進みます。祈りは信仰の事柄です。すると信仰から愛に進んだのに、また愛から信仰に戻るのでしょうか。そうです。愛と信仰は共に手を携えて歩むのです。信仰と愛とは、本質は同じなのです。コリント13章には、「愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と言っています。ここに信仰が出てきます。愛は信じるのです。信じるの反対は疑うことです。ここで「スイスは、人間の混乱と神の摂理によって今日ある」と言えないでしょうか。信じ、望み、耐えるのは、まさに人間の混乱のただなかです。そこに一条の神の御摂理の糸が引かれていないでしょうか。愛とはこの信仰に立っています。もしこの信仰がなければ、愛はたたないでしょう。
 「信じなさい」と言うと、皆、納得します。しかし、「愛しなさい」と言うと、ある時はできるが、ある時はできないというでしょう.てんかんの子を持つ父親が、「もしできますならば、お助け下さい」と言った時、イエスはその父親に言いました、「もしできればと言うのか、信じる者にはすべてのことができる」、すると父親は言いました、「信じます、信仰のないわたしをお助け下さい」(マルコ9:22以下)。そうです。ここでも父親の言葉は、「できないわたしをお救いください」と祈りになっています。できないものを越えること、それは神の力なのです。それを愛に当てはめて言えば、「愛します、愛のない私をお助け下さい]です。愛の問題は信仰の問題に、そして最後に信仰の問題は祈りの問題になります。
 最後にこの「できない」、「愛せない」の問題について、聖書は言います、「愛とは、私たちが神を愛したのではなく、神が私を愛してくださって、私たちの罪のために、あがないの供え物として、御子をおつかわしになった、ここに愛がある」。とすれば、私たちの行為,愛、倫理は、この神の無限の愛に対する感謝の応答ではないでしょうか。これは大きな転換です。ハイデルベルク問答に、「そういう教えでは人は無頓着傲慢にならないでしょうか」、「いいえ、イエスの十字架によって救われた者が感謝の実りを結ばないことは決してありません」とあります。
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