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12月9日(日)「ザカリヤの賛歌」説教要旨
  聖句
旧約 「誰かあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りを長く保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。」(ミカ7:18-20)
新約 「父ザカリヤは聖霊に満たされ、預言して言った、『主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、私たちのために救いの角を僕ダビデの家にお立てになった。古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、私たちを敵から、またすべて私たちを憎む者の手から、救い出すためである。こうして、神は私たちの父祖たちに憐みをかけ、その聖なる契約、すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いを覚えて、私たちを敵の手から救い出し、生きている限り、清く正しく、み前に恐れなく仕えさせてくださるのである。幼子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみ前に先立って行き、その道を備え、罪のゆるしによる救いをその民に知らせるのであるから。これは私たちの神の憐み深いみ心による。また、その憐みによって、日の光が上から私たちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照らし、私たちの足を平和の道へ導くであろう。』」  (ルカ1:67-79)
 クリスマスは、田舎の自信のない乙女から始まったように、また子どものいないさびしい老祭司ザカリヤから始まりました。しかし、その田舎の自信のない女子青年が、神さまにとらえられた時、賛歌をうたったように、この祭司も神にとらえられてその時、神を賛美する歌を歌いました。彼は子のない苦しみを味わいました。しかし、私たちが苦しみに落ちる時、沈黙するしかありません、しかし、それは私たちをからにします。無心にします。からになった茶碗でなければ、おいしい御馳走を入れることができないように、私たちは、まずからにされて、初めて本当のことができるのです。がらくたが山と積まれた物置小屋同然の家では引越しすることはできません。神も同じです、私たちがからになった時、聖霊が私たちの中にはいられるのです。
 こうしてザカリヤは、讃美歌を歌いました。私たちもまた良く讃美歌を歌います。しかし、多くの場合、メロデイ―にのって、いい気になって歌っているのではないでしょうか。そこで讃美歌とは、神を賛美する歌であります。私たちは本当に神を賛美しているでしょうか。しかし、ザカリヤのそれは、それはマリアの賛歌のように、救い主キリストへの賛歌ではありません。その救い主を指示し,証しするバプテスマのヨハネの誕生の賛歌です。
 「幼子よ、あなたはいと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみ前に先立って行き、その道を備え」とあります。ヨハネは、「預言者」であって救い主ではありません。「バプテスマのヨハネの指」という絵があります。それはただヨハネの指だけが描かれている絵です。その指の指す向こうには光がさしています。その光が救い主イエス・キリストの誕生の光であります。ヨハネの使命は、救い主を指示す証人の務めです。
 「幼子は主のみ前に先立って行き、その道を備え」とあるように、証人としての位置以上には出ません。私たちは、救い主にはなれませんが、ヨハネならなれます。バルトの教育論、それは教えるのでなく、指差す教育でした。わたしを見なさいではなく、この人を見なさいです。バプテスマのヨハネの指にならなれます。それはイエス・キリストを指示しているのです。ではそれはどういうことをするのでしょうか。
 1.「恐れなく仕える」-低くなること、謙遜、傲慢ではない
 2.「預言者となり先立って行く」-前の方を見ること、希望の信仰、決してあきらめない。
 3.「罪のゆるしを伝え、主のあわれみを」-周りを見る、隣人への愛,
 4.「日の光が上から」、-上を見る、神を見上げるのです。
これがザカリヤの賛歌の描く、証人の姿です。
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