12月23日(日)「馬小屋のクリスマス」説教要旨

           聖句
旧約
 「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ9:6-7)

新約
 「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである』。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』。御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか』と、互いに語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼いたちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。」  (ルカ2:8-20)

  クリスマスとは「ふさわしくない者がふさわしい者とされる和解の福音」と言えます。聖書の物語にでてくるのは、救い主にふさわしくない、馬小屋だったり羊飼です。それは、この異質な人びとが、ふさわしいとされる、神の恵みにほかなりません。板橋の教会の伝道集会の説教に招かれて行ったことがあります。そこに「自分は宗教にふさわしくない、集会に行かない」と言っていた人、教会の信者でお医者さんをしている人のお兄さんでした。何とそのふさわしくない人が真ん中に座って、話を熱心にきいているではありませんか。そのふさわしくない人は、結局三日三晩、私の話を聞き通しました。クリスマスとはそのようなふさわしくない人が、異質な人が迎え入れられ、神と和解する場所なのです。

  馬小屋とか飼葉おけというのも、救い主にふさわしいとは言えません。いや正反対です。そういう異質なものが、恵みによって神の救いと一つにされる出来事です。ヘーゲルというドイツの哲学者に、弁証法というのがあります。本来あるべき「正」に異質なことが「反」で、この二つが和解されることが「合」です。クリスマスの使信と似ています。

  板橋の教会の例で言えば、信仰者である人を「正」とすれば、自分はふさわしくないと言っていたその兄さんは「反」でしょう。その人が聖霊の招きで、教会に来るのは「合」、まさに和解です。日本にキリスト教が入ってきます。異質な世界です。徳川時代には迫害がありました。「反」です。しかし、いま迫害はありません、それどころか、ミッションスクールがあり多くの子女がキリスト教を学んでいます。私たちの実際生活に当てはめれば、人は病気をします。もし健康な体を「正」とすれば、病気は「反」です。しかし、神の恵みと聖霊によって、その病が用いられて、私たちに益に働くなら、それは和解の「合」です。私たちがあることをします。世の中には必ず反対者が現れます。それが「反」です。しかし、徹底的に対話します。そして両者が和解に達します、それが「合」です。この世に事は、このようにクリスマスの出来事によって成り立っているのです。それはふさわしくないもの、異質なものが、受け入れられ、和解を通して新しいものが生まれるのです。

  クリスマスには、馬小屋という、全く神にふさわしくないものが現れます。しかし、そこに天使が現れます。この馬小屋は、すべての者の救いと言うことを表すために用いられます。羊飼いというのは、ふさわしくないものです。いやしい者とされていました。しかし、クリスマスの物語には、そのふさわしくないものが用いられます。御使が現れます。御使とは、人間の不可能性のところに現れる神の可能性です。その時、「いと高きところにでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と、ふさわしくないものが受け入れられます。これがクリスマスです。歴史はクリスマスの使信、あのふさわしくないものが受け入れられ、反対の者が和解させられる福音で貫かれています。「スイスは人間の混乱と神の摂理によって今日ある」と言われます。人間の混乱、まさにふさわしくない、反対の出来事です。しかし、この世界は、ふさわしくない反対の出来事で満ちています。そういうことに驚いたり、恐れたりしていてはいけません。その人間の混乱というふさわしくない出来事のただ中に、神の摂理があるとしたら、それはクリスマスの使信ではないでしょうか。

  別な言葉で言えば、それは「愛」で表されます。愛こそ反対するものの和解の中心の言葉です。イエスとは、馬小屋に生まれたイエスとは、まさにその愛の主なのです。子供の賛美歌にあります。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」、「主は強ければ」は「正」とすれば、「われ弱くとも」は「反」です。「恐れはあらじ」は「合」であります。皆さん、「われ弱く」と反対のものを見て驚いてはなりません。それはやがて必ず和解へと導かれる、「主は強ければ」と、「恐れはあらじ」、それがクリスマスの使信メッセージです。

  「恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところにでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』。」
   


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