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1月6日(日)「真の新しさ」説教要旨
  聖句
旧約 「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない。また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」  (イザヤ43:18-19)
新約 「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」  (エペソ2:14-16)
 イザヤ書には、「さきの事を思い出したり、いにしえのことを考えてはならない」と言っています。けれども私たちは歴史を勉強し、古い時代のことを学ばなければならないのではないでしょうか。イザヤ書の場合、イスラエルがバビロニアに捕囚にあった時、突然ペルシアが来て、バビロニアを滅ぼしイスラエルを捕囚から解放しました。そこで捕らわれの時代の苦しいことをとやかく言っても始まらないでしょう。今や、古きを投げ捨て、新しい時代の冒険をすべき時なのです。その時々で古きを尋ねる時もあり、ここにあるように古きを忘れて新しい事態に対処すべき時もあります。ある神学者は言っています。
「神はバビロニアに人を遣わし、その獄屋のかんぬきをこわし、新しい出エジプトを指導しようとしています。<さきの事>に対して、神が今引き起こそうとされる新しい事に関心を集中するのは、さきの事が現在に対して意味がないかのように解釈すべきではありません。かえって、それは民がないと考えていた将来を主のしもべに待望せしめる事なのであります。大路は恐ろしい荒野のなかに設けられ、神ご自身がその民を導いて、それを通過させます」。
今はくどくどと過去の罪や失敗をくりごとのように述べ立てる状況でしょうか。むしろ新しいものに期待をもって前進する時ではないでしょうか。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」。神が事を行われる時、そこに奇跡が起こります。この年もまた、私たちはこの神の業を奇跡を期待してよろしい。私たちの新しさとは、人間がこしらえる新しがりや新奇な見世物ではありません。実に神が、さばくと見えるところ、荒野と信じられる場所に、川を道を設けられるということです。
 しかし、これは物質的環境の変化です。さらに新約聖書では、私たち人間の中に起こる偉大な変化を記しています。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き」とあるように、私たち人間の中にある新しさは十字架と関係します。十字架が私たちの罪のゆるしだけなら、あまりにも個人主義的に過ぎます。もうひとつの意味があります。私たちの中の「敵意」や「憎しみ」を取り除いたのです。十字架とはそもそもユダヤ教の律法主義者たちが、イエスがあまりに自由に罪人をゆるす愛を主張するので、憎しみをもったことに始まります。それは「律法の戒め」対「神の愛」意味します。戒めを主張する者たちは、多数で、イエスの愛に対して、物理的には勝利します。それが十字架です。しかし、そのイエスは自分を十字架につけた人びとの罪のゆるしを神に祈ります。
「父よ、彼らをゆるしてやってください。彼らは何をしているか、分からずにいるのです」(ルカ23:34)。
この時、十字架のイエスは、実に律法主義者たちに勝利したのではないでしょうか。
 不当な憎しみによって十字架を負わされることだけでも、大変なのに、イエスはその十字架の上で、自分を十字架につけた者たちのゆるしを祈るのです。十字架を大きな神の愛に対する人間の側からの否定だとすれば、神の愛はさらにその否定を上回って、さらにその憎しみを否定され、ゆるしを宣言するのです。この愛をもはや否定するものはありません。否定の否定は、絶対の肯定です。十字架の愛は無限の神の肯定にほかなりません。それがこのエペソ人への手紙が示すもの、それはこの新しい神の愛、無限のゆるしにほかなりません。新約聖書によれば、真に新しいこととは、十字架から生み出される、この和解の福音にほかなりません。
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