1月20日(日)「バベルの塔」説教要旨

           聖句
旧約
 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに移り住んだ。彼らは互いに言った、『さあ、れんがを造って、よく焼こう』。こうして彼らは石の代わりに、れんがを得、しっくいの代わりに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、『さあ、町と塔とを建てて、その頂きを天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう』。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう』。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」  (創世記11:1-9)

新約
 「五旬節の日がきて、みんなのものが一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」  (使徒行伝2:1-4)

  バベルの塔の物語は三千年以上も前にできたのに現代的です。「彼らは石の代わりに、れんがを得、しっくいの代わりに、アスファルトを得た」。これは現代の科学技術社会とそっくりです。石→レンガ(石器時代から科学技術へ)、しっくい→アスファルト、古い材料から、新しい科学技術的材料、それは昔のものより便利重宝です。こうして科学技術は人類に進歩を約束しますが、さらにもう一つのことが起こります。「さあ、町と塔とを建てて、その頂きを天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」、これは一言で言えば、「高くなり、ひとを見下ろす願望」です。個人でも団体でも人間は、自分だけが富み、偉くなることを望んでいませんか。

  さらにその高くなる欲望は、1「町と塔とを建てて」、2「その頂きを天に届かせよう」、3「そしてわれわれは名を上げて」、4「全地のおもてに散るのを免れよう」と、四つに分けることができるでしょう。
  1 「町と塔とを建てて」
都市化現象、田舎の軽蔑とそれからの脱却。そして都市には必ず塔ができます。パリ-エッフェル塔、東京-東京タワー、それは権威の象徴です。塔を見ると、何か自分が偉くなった気分になります。 
  2 「その頂きを天に届かせよう」
塔の建設の目標は自分が向上し、ついに自ら神になることです。神に達することです。人間の営みはすべて、自ら神になる要素を含んでいます。自己満足、自信、自己完結、そして傲慢がそれです。この新しい都市社会は、利己主義的で傲慢です。
  3 「そしてわれわれは名を上げて」
これは一人一人小さいものを大切にするベンヤミンの名の信仰ではありません。ここでは自分の名を高めて誇るのです。
  4 「全地のおもてに散るのを免れよう」
散ることを恐れるのは、全体主義志向です。一人一人の個性を大切にする信仰ではありません。多数化を恐れ、一つの権力の下に集める全体主義です。

  科学技術は物質的には幸せにしましたが、精神的な面では、恐れを生みました。自動車は便利ですが、交通事故や騒音と公害の基になります。コンピューターは便利ですが、情報過多になり、選択の苦労を生みます。心配が増えてきます。この世の物事はいい面の反面、悪い面があります。

  さてバベルの塔の物語は、最後に大切なことを教えています。
 「そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」。バベルの塔の物語は、人間の傲慢の物語であると共に、私たちの言語の問題でもあります。傲慢の末、人間は互いに言葉が通じなくなりました。人は傲慢になると、互いに話が通じなくなります。世代間に話が通じなくなっていないでしょうか。親と子、言葉が通じているでしょうか。もちろん謙虚な人は、言葉を通じさせることができます。しかし、真の言葉の伝達、互いの意志疎通は、別な面からきます。それが今日の新約聖書、ペンテコステの記事であります。

  「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。
  聖霊が散らされていた言葉を一つにしました。ゲオルギウの小説『25時』には次の場面が出てきます、アメリカ兵が第二次世界大戦の時、東欧の国に入ってきました。互いに言葉が通じません。それで「アーメン、アーメン」というところが出てきます。キリスト教信仰のあるところなら、「アーメン」は世界共通です。そこで「私たちはキリスト者だ」という合図に、アーメンという共通語をもちいたのです。信仰は世界共通語を生みます。

  「一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」。ここに二つのことが明らかになってきます。「舌のようなもの(つまり言語、言葉です)」、また「ひとりびとりの上」、個々人が貴ばれています。

  ではその聖霊は、どのようにして得られるのでしょうか。聖書では、聖霊は祈りと結びついています。ペンテコステは祈りの結果でした。「天の父はなおさら求めてくる者に、聖霊をくださらないことがあろうか」(ルカ11:13)とあります。
   


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