1月27日(日)「あがない(贖罪)」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。」  (レビ16:17)

新約
 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」  (ローマ3:21-26)

  「あがない」とは「奴隷や土地を買い戻すこと」、たとえば自分の親しい奴隷をお金を払って解放して自由にすることです。神学的には「贖罪論(しょくざいろん)」と言います。それは神が人間の罪をゆるすために、人間にはそのための[あがないの]力も能力もないので、神の側であがないをしてくださる。その現れがイエス・キリストの十字架であります。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。この信じる者に無償で与えられる恵みは、全く一方的な神の恵みであります。

  「神の義」とは「私たちと神との正しい関係」です。その反対は「人間の義」、「自分の義」です。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」(マタイ6:1)。たとえば施しをする時、自分の前でラッパをならすということです。私たちは自分のしたよい行為は宣伝し、悪い行為は黙っています。それが「自分の義」です。それは自己主張にすぎません。「人間の義」は人に見せるためですが、「神の義」は与えられるものです。しかも、「値なしに、無償で」与えられるものです。だれもそれを自分で払うことはできません。私たちの側では「値なし」ですが、神の側では法外な値が払われています。イエスは言われます、「わたしはあなたのために値を支払った」、「あなたをあがなった」と。ですから「もはや私が信じているのではない」、「神がこのイエスにおいて、私を信じてくださるのです」。このキリストの真実はすべての人に通じます。そこに罪人の義認が起こるのです。あなたがどんな罪を犯していても、神はイエス・キリストの十字架のゆえにあなたを信じてくださるのです。

  ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、夫を殺した農婦がゾシマ長老のもとに懴悔に来た時、長老の答は次の通りです。「その後悔がお前さんの心の中で薄れさえしなければ、神さまはすべてを赦してくださるのだから。心底から後悔している者を神さまがお赦しにならぬほど、大きな罪はこの地上にないし、あるはずもないのだ。それに限りない神の愛をすっかり使いはたしてしまうくらい大きな罪など人間が犯せるはずもないのだしね。それとも、神の愛を凌駕するほどの罪が存在しうるとでもいうのかな」。

  しかし、この限りない神の愛を、パウロは神の義から説きます。人間の罪をそのままゆるす訳にはゆきません。それでは神の義が立ちません。しかし、それは、「今の時に、神の義を示すためであった。こうして神みずからが義となり」とまず神の義がみたされる。その義が徹底するところ、さらに、「イエスを信じる者を義とされるのである」。ヨハネ福音書8章の罪ある女の話が具体的に示しています。人びとは姦淫の現行犯の女を連れて来て、律法には石で打ち殺せとありますが、イエスの意見はどうですかと聞きました。イエスは「あなたがたのうち罪のない者が最初に石を投げ打て」と言いました。これは厳しいさばき神の義の声です。この神の厳しい義の声に、私が最初に石を投げるという者は一人もいません。その時、イエスは女に言いました。「わたしもあなたを罰しない、この後、罪を犯すな」。神の義が徹底する時、誰もその義に耐えられず、年寄りを初めに去って行きました。「それは今の時に、神の義を示すためであった。こうして神みずからが義となり」とまず神の義が満たされる。その義が徹底するところ、さらに、「イエスを信じる者を義とされるのである」。義は徹底すると愛になるのです。

  青年時代、浄土真宗とキリスト教についえ悩みました。阿弥陀さまの本願によってゆるされる。しかし、そこには慈悲だけあって、義がありません。十字架がありません。私は聖霊を受けて十字架の意味が分かりました。浄土真宗とキリスト教の違いも分かりました。恵みと愛は義の裏打ちなしには、そこから新しい倫理は生まれてきません。
   


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