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2月3日(日)「キリストのからだ」説教要旨
  聖句
旧約 「モーセのしゅうとは彼に言った、『あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎むひとを選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。」  (出エジプト18:17-21)
新約 「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言葉を告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。」  (コロサイ1:24-25)
 聖書では教会のことを、「キリストのからだなる教会」と言います。キリストの御業の地上の継続の業を、「キリストのからだなる教会」と申します。旧約聖書でも、モーセに自分一人でなく、彼を助けて出エジプトの業を成し遂げさせるために、長老を選ぶことが述べられています。つまり教会にもこの地上に組織が必要です。教会の使命は、この地上にキリストの救いの御業を広めること、すなわち「宣教」にあるのです。この「宣教」は、教会の霊的仕事ですが、この中心的業を遂行するために、教会は地上に「キリストのからだ」をもっています。それはこの地上に組織体として形成されています。ただこの組織は地上にあり、地上的なものですが、つまりふつうの組織と同じく、規則(法)があり、役員があり、会計があり、書記も必要です。しかし、そのような地上的組織は、霊的に行われられなければなりません。霊的に行われるとは、聖書の指針に忠実であり、イエス・キリストのみ旨ねにふさわしく行われられなければならないという意味です。本当にキリストにふさわしく行われているか、確認するのが神学です。
 次に、これは組織ですから、地上的な歴史があります。歴史的には、教会の組織は、その形態が三通りあります。「監督制」、「会衆制」、「長老制」の三つです。「監督制」は、一人の監督が支配する、上からの制度です。これは独裁だと思われがちですが、これも聖書に基づいて考えられています。神は一人、キリストも一人、信仰はこの一人なる神の啓示に基づいています。とすれば、監督制は、聖書にふさわしい制度ではないでしょうか。この監督制は、具体的にはカトリックや聖公会に見られます。その正反対は「会衆制」です。「民の声は神の声である」と、会衆の声を聞くことが、神のみ旨ねをきくことにつながる。使徒行伝を読むと、教会はその最初から会議を開いてことを決めています。この会衆制は具体的には、バプテスト教会、組合教会に見られます。監督制と会衆制の中間にあるのが、「長老制」です。これは監督制が上からの組織であり、会衆制が下からとすれば、代議制です。会衆に選ばれた長老が、教会の政治、牧会をつかさどります。
 日本キリスト教会が、今現にとっているのは、長老制と言われていますが、厳密には長老制と会衆制の混合形態だと思います。たとえば牧師の招聘の権が教会総会にあるからです。したがって監督制、会衆制、長老制の三つの区別は、牧師の招聘のことを考えてみると、はっきりするでしょう。監督制は、監督に牧師決定の権利があります。会衆制は、会衆に牧師招聘の権利があります。長老制は長老に牧師招聘の権利があります。面白い例をお話しましょう。バプテスト教会は会衆制ですから、会衆全体の会議で牧師を選びます。極端な例ですが、会衆の一人が、自分がこの教会の牧師にふさわしいと主張します。もし会衆がそれを認めれば、その人はその教会の牧師になれます。他の教会はそのことに異を唱えることはできません。監督制の場合、個々の教会の会議、長老会にせよ、総会にせよ、個々の教会の会議では、牧師を決められません。それを決めるのは、監督です。上からです。
 次に私たちはここでパウロがこう言っていることに注意しましょう。  「今わたしは、あなたがたのための苦難を受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」。三つに分けて考えましょう。第一「あなたがたのための苦難を受けており」、これは、教会形成の苦労を言っています。その労苦は、キリストの十字架の苦しみに応答する行為です。キリストの十字架によって救われた私たちは、教会形成の労苦を分かち合わなくてはなりません。第二「キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを」、キリストの十字架の御苦しみに何か不足している、足りないところが、あるのでしょうか。そうではありません。救いとしてはキリストの十字架は十分です。しかし、それを伝える宣教の業は、私たちに任せられています。それゆえこの十分な救いを伝えなくてはなりません。第三「わたしの肉体をもって補っている」、その業は、私たちがしなくてはなりません。しかも私の肉体をもって、身体的に行動をもってしなくてはなりません。
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