2月17日(日)「断絶」説教要旨

           聖句
旧約
 「悪人は自分の罪のわなに陥る、しかし正しい人は喜び楽しむ。正しい人は貧しい者の訴えをかえりみる、悪しき人はそれを知ろうとはしない。あざける人は町を乱し、知恵ある者は怒りを静める。」  (箴言29:6-8)

新約
 「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのさから、喜び祝うのはあたりまえである』。」  (ルカ15:31-32)

  「断絶」とは、愛の否定面です。しかし、断絶は決してあかの他人との間では起こりません。親しい交わりのないところには、断絶の悲哀もありません。愛する者同士の間でこそ、その否定面として絶交、断絶があるのです。放蕩息子のたとえで言えば、ここでは父子の間、また兄弟の間に断絶が起っています。しかし、その他夫婦、友人・同志の関係にも起こります。しかし、断絶のないのは、本当の交わりではないとも言えます。真の愛と断絶とは、隣り合わせです。弟息子は父親に、生きているうちに財産を分けてくれと言います。すでにこの話の冒頭から断絶が見られます。弟は父親との愛の関係よりも財産を優先します。愛よりも物欲が先です。ここに人間の基本的断絶があります。その証拠にお金をもらうとすぐに弟は、自分のものを全部とりまとめて遠い所に出て行きます。まさに断絶です。

  この弟息子は遠くで財産を使い果たして帰ってきます。その時、兄息子が承知しません。父親の弟に対するあまりに優しい態度に、ふてくされて家に入ろうとしません。ここに第二の断絶が起こります。それは裸同然で帰ってきた弟に対してと、その弟を歓迎して迎える父親の態度に対してであります。それは根本的には兄息子のエゴイズムです。つまり「自分はこんなにまじめに働いた。あの放蕩息子とは違う、当然そのまじめな勤労に対して、報いがあってしかるべきだ」と。常に断絶の根底には、利己主義、自分中心主義があります。ところがこの断絶に直面しての父親の態度が特異です。ふつうの父親なら、弟が財産をくださいというと、こう言うでしょう。「財産を今欲しいというなら、分けてやってもいいが、その前に注意しておくことがある。お前は、道楽が好きだ、財産を道楽に使わないで、まじめに働くことを約束するなら、今、財産を分けてやろう」。また無一文で帰って来た時も、「今後は決して遊んだりはしない」という誓いの言葉を聞きただしてから、ゆるすのではないでしょうか。けれども、ここにはそうした忠告は一切ありません。ここのたとえの父親の態度は不可解です。一切注意を与えたりしないどころか、息子が帰って来た時、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻しました」。息子のわびなどほとんど耳に入らぬくらい、「さあ早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、また肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と、先手を打って歓迎の言葉を語ります。

  この現実ばなれした父親の姿こそ重要な点なのです。それが天にいます父の姿を現しているからです。すべて相手の姿、相手の言い分に寄り添っている姿、それこそが、私たちの信仰する真の天の父なる神の姿なのです。神は、私たちを強制して善を行わせたりはせず、(小言を言ったりはせず)私たちの自由意志に任せられたのです。しかし、愛を表現する時には、天の父は積極的です。私たちが悪いことをする時、じっと待って見ていてくれます。しかし、神が私を愛する時、積極的にとんで来ます。なんとありがたい父ではないでしょうか。この放蕩息子のたとえには、そのような天の父なる神の姿が手に取るように現れています。

  ここででは断絶はどうでしょうか。断絶があるのは、弟息子と兄息子にあるだけで、父の側には、一切断絶らしいものもありません。私たちの人間関係を見てみましょう。愛しあうほど、そこに必ず断絶が生まれます。断絶は愛の深いところで、決定的に起こります。その時、救いはこの父親です。父親は、息子が遠くに行く時、止めたり忠告したりしません。それはこの弟息子を信頼してからです。兄息子がふてくされて家に入ろうとしない時、出てきて説得するのは父親です。断絶の起こる時、救いはこの父親です。

  私はこのたとえの父親の姿に、私が五十年続けてきた牧会カウンセリングの精神に似ているものを見いだします。なぜなら、牧会カウンセリングとは、相手に寄り添って、自分からは解決を提案しない、また聞く一方で、相手に寄り添って、相手が解決を見いだすまで、じっと耳をすまして聞くのです。この「聞くことの奉仕」は、まさにあのたとえの父親の相手に寄り添う態度に似ていると思いました。そしてそのことが、断絶を防ぐ手立てであり、断絶を解決する方法だと思います。別な言葉で言えば、「神が解決してくださる」につきます。人間の混乱、断絶のあるところ、必ず神の愛の御手がある。罪のますところに、恵みもいや増すのです(ローマ5:20)
   


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