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2月24日(日)「物質と精神」説教要旨
  聖句
旧約 「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」  (創世記2:4-7)
新約 「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。」  (Ⅰコリント15:42-46)
 「物質と精神」ということで「心と脳」について考えてみましょう。唯脳論という考えがあります。人間の精神活動はすべて脳にある。人間が考えたり思ったりすることも、すべて脳の作用だという極端な唯物論です。もしそうなら人間に自由意志はなくなります。どの道を通って教会に来るかというのも、あらかじめ脳の作用で決まっているのでしょうか。この唯脳論というのは受け入れられません。次は心は脳と関係があるが、脳に支配されるものでなく、逆に心が脳に命じることもできるというのです。そして脳という物体的なものが心に作用することもあるし、反対に心が脳に作用することもあり相互関係にあるというのです。まともな大脳生理学者なら、そう考えるでしょう。聖書もそうです。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と創世記は記しています。土から造られたという面では物質的ですが、神はそれに命の息を吹き入れたのです。人間の生命現象、精神的活動は、神の業によっています。この神の道に従わず自己中心に走るのが人間の本質的な罪にほかなりません。「罪」という字は「四つの非ず」と書きます。1 神は非ず、2 隣人も非ず、3 愛は非ず、4 罪など非ず、罪とは「私」だけで、罪とは神も隣人も、愛もない姿です。愛もないから自己中心になります。罪がないと言う人は、神も知らなければ、愛もなく、隣人も無視する人にほかなりません。それゆえ、罪ある人間は、神の似像を失って、愛から離れているのです。そこでは物欲、金銭欲が支配して、真理を見えなくしています。
 新約聖書では「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだでよみがえるのである」。罪の問題で、十字架が大切であるように、復活も視野に入ってきます。復活にも、精神と身体の二面の関係があるからです。私たちの地上にある身体は、罪に汚れたからだです。イエス・キリストはこの地上の身体をとって来られました。そして身体にまつわる人間の地上的罪を身に負って、十字架にかかりました。さらにその罪と死に勝利するために、復活されました。それは地上の肉のからだから、新しい霊のからだが生まれることです。それは肉の罪に神の子が勝利した姿にほかなりません。復活には、このように、肉→霊、死→命、地上→永遠にと移行があります。それが神の子の勝利の姿です。
 こうして私たちは、「物質と精神」の問題から、さらに発展して、受肉→十字架→復活へと勝利の歩みを進めて来ました。「物質と精神」は、ただ共時的に同時的に考えられるだけでなく、時間、歴史を通じて、通時的に考えられねばなりません。そのことはイエス・キリストのご生涯という、神の子の歴史が示しています。神の子は肉を取り、物質的に来て、ついに復活という霊的勝利へと抜けて行きました。それはほかでもなく、私たちをも、その勝利の道にさそい導くためにほかなりません。まさに「物質と精神」の問題の回答が、イエス・キリストのご生涯の中に、その歴史の中に示されているのです。それがこの問題の信仰的解決です。そのことによって、私たちは難しいこの問題に対して、肩の重荷を下ろされます。主イエスの歩んだ道を進めばよいからです。その時、「物質と精神」という、その精神の考えが変化しているのを覚えます。その場合、初め物質に対立する精神でしたが、もはやこのように通時的に歴史的に考える時、この二つは決して単純に対立するものではなく、このように新しく歴史的、通時的に理解される精神は、物質的なものをも包み越えるからです。からだも否定されないで、精神的に生かされるのです。
 そうすると「心と脳」も同じです。二つは対立するものではなく、相互に関係するものなのです。心は脳から完全に切り離されているのではなく、脳と関係をもち、さらに脳に働きかけるし、脳も心と関係なく、ただ物質的でなく、心に働きかけ、相互に関係しあうのです。
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