3月24日(日)「十字架の愛」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。・ ・ ・これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」  (イザヤ53:7-10,12)

新約
 「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」  (Ⅰコリント1:18-25)

  旧約聖書のイザヤ53章全章にわたって、主の僕のあがないととりなしの事実が描かれています。これは十字架のキリストの預言でなくて何でしょう。これほど前から預言されていたのに、いざその事実がイエスによって実現されると、そこには信じる人とこれを退ける人とに分かれました。十字架は、あたかも分水嶺のように、信じる者と信じない者とに分けました。その外見は愚かだからです。その外見に捕らわれて真実を見極めない人は、愚かにも十字架を見捨て、その真実と真理を見極める人は、これに依り頼み、信仰を形成し、主の教会を形作ります。

  ではその十字架の二面性とは何でしょうか。表面的に見れば、十字架とは、ローマ帝国の極刑であります。むごたらしい死刑の仕方の一つでしかありません。そのようなむごたらしい死刑の仕方に何の救いの意味があるのでしょう。確かにイエスは民衆に誤解され、ユダヤ当局には憎まれ、ローマ政府には恐れられたかも知れません。しかし、信じる者にとっては、それらすべてが、イエスの偉大さの象徴でさえあるのです。十字架のゆえにイエスの福音は輝くのです。その救いの深みはそこに開花するのです。

  神学者モルトマンは高校時代召集されて、ハンブルクの空襲に会います。まわりに親友の死体の横たわる中、九死に一生を得、気が付いたらアルスター湖に一枚の板と共に浮かんでいました。その時、神に向かって「神よあなたはどこにいるのか」と問いかけました。その後、捕虜収容所で従軍牧師から聖書をもらい読みました。マルコ福音書を読んだ時、十字架のイエスの「わが神、わが神、どうして私を見捨てなったのですか」の叫びに、わきあがる確信を覚え、それは、自分の見捨てられた状況とかさなりました。こうして十字架のイエスが彼を捕らえ、信仰から神学の道へと彼を導いたのです。
十字架の血に きよめぬれば、 来よとの御声を われはきけり
主よ、われは いまぞゆく、 十字架の血にて きよめたまえ
よわきわれも みちからをえ、 この身の汚れを みな拭われん
主よ、われは いまぞゆく、 十字架の血にて きよめたまえ
  (賛美歌515)
  この賛美歌には、十字架の意味がはっきりと出ています。「十字架の血がわたしの罪深い身体をきよめてくださる」と。さらに「主よ、われは いまぞゆく、十字架の血にて きよめたまえ」と、それに応答する私たちの行動が出ています。真宗の教えでは、十字架がなく、この応答する実践が出てきません。この十字架のあがないがないのです。したがって応答もなく、「十字架の血にてきよめたまえ」と祈る人生が生まれてきません。「あがない」とは、この罪をつぐなってくださる無償の愛の行為です。そこには必ず愛の応答が起こります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛しあうべきである」(Ⅰヨハネ4:10-11) と。
   


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