4月7日(日)「神義論」説教要旨

           聖句
旧約
 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。・・・神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」  (創世記1:27,31)

新約
 「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。」  (Ⅰテモテ4:4-5)

  「神義論」という言葉は、神学を少しかじった人なら、その意味が分かります。しかし、たとい神学を知らない人でも、その内容は、良く分かります。なぜなら、それはキリスト教外の人の方が、よく問題にするものだからです。「この世界は、愛なる全能の神が造ったなら、どうしてこの世界に不幸や悪が万延するのか」、こういう問いです。これは信仰の深い人よりも、むしろ、あまり信仰の分からない初歩の人、キリスト教外の人が問う問題です。したがって「神義論」は、信仰者よりも未信者の問う問いです。しかし、信仰者も問うことがあるし、また未信者の問いに答えなくてはなりません。

  「この世にこれほど不幸や罪悪があるのに、それでもこの世界は神が創造したものなのか」と、問われれば、何と答えますか。昔からあった答えは、こうです。「確かにこの世界は、全能で善にして愛なる神がお造りになったものである。しかし、神は人間を御造りになる時、人間に自由をお与えになった。この世に起こる悪は、人間がその自由を乱用したからである」と。けれども、これは厳密に考えると答えになっていません。なぜなら、「どうして善なる神が、そのような間違った自由を人間にお与えになったのか、もっと立派な自由を与えれば良かったのに」と、たたみかけて問われるからです。

  「神は人間を自由に造った、しかし、人間はその自由を乱用した」、このアウグスチヌス的考えに対して、イレナエウスの考えがあります。それは「共同創造」という考え方です。神は百パーセント創造したのでなく、人間にある部分を残しておかれた。それは人間をご自分の姿に似せてお造りになった神としては当然のことです。この世界は神の創造によってなるものですが、しかし、人間もまたそれに参加できるのです。それはただ最初の祖先アダムやエバに当てはまるだけではなく、私たち現代の人間にも、その後の歴史世界にも当てはまるのです。すべての人間は、神の継続的創造の業に参加できるのです。なぜなら、神の最初の創造は、完成ではないからです。もし神が完成体をお造りになったなら、その後の歴史は、ただ神のお造りになった規則に従うだけで、人間には何の自由も創造もないことになります。創世記を見ると、神は全世界をお造りになって、人間にご自分の力を分かち与え、さらなる創造を期待しているように見えます。これがイレナエウス的「共同創造」の考え方です。

  昔、神学はこの創造世界を神が創造された後、一切を人間にゆだねたとしました。その結果、神学はこの創造後の世界を、科学にゆだね、任せてしまいました。これが誤りなのです。「継続的創造」ということがあります。ゼレという女性神学者は言います。
  「共同創造という考えは、その根底に、最初の創造は未完成であることが考えられています。創造は継続しています。それは進行しつつある過程です。もし私たちが、創造を昔、ただ一回起こったこととするなら、創造の意味をとらえることに失敗します。聖書の伝承は、無からの創造を教えています。神が創造を始める前、混沌と無だけがありました。しかし、創造が継続しているということは、その他のものに混ざって、混沌と無とが依然として私たちのもとにあり、私たちの『存在の住処』を破壊しようと猛威をふるっている。そして、私たちが創造に参与することによってのみ、無から忍び寄る死の願望に打ち勝つことができます」。

  神は自分が全部やってしまって、子供に何も残さない愚かな教師や両親のようにではなく、人間に自由裁量の余地を残し、それを人間に期待しているのです。
  次のベルジャーエフの言葉はこの間の事情を尽くしてあまりあるものです。
  「救いとは、まさに人間が神ともう一度交わりを結ぶことによって、他の人間や世界と失われた関係をふたたび取り戻すことにほかならない。だから個人だけ、または選ばれたものだけが救われるということは決してありえないことなのである。十字架によって象徴されているこの世の苦しみと悲劇は、全人類と全世界が救われ、その本質が根本から改められ、生きとし生けるものがすべて生まれかわわらねば絶対に終わりに達しないであろう。またたとえこうした真の意味での救いがこの世で行われないとしても、それはいつか別の世界でおこなわれるに違いない。神の救いの働きは世々いつまでも続くものであって、決してこの世に限られたものではない。わたしの救いは他の人たちの救いとかかわっているばかりか、動物、植物、好物、いや一枚の草の葉とさえかかわりあっているのである。こうした宇宙のすべてのものが全面的に変容し、神の国のものとならなければ、わたし自身にも救いは訪れないであろう。しかも、全宇宙のすべてがーそしてわたし自身もまた、救われるかいなかは、もっぱらわたしの創造活動いかんにあると言っても過言ではない」(ベルジャーエフ)。
   


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