2013年5月19日(日)ペンテコステ礼拝説教「聖霊下る」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「その後わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ。」  (ヨエル2:28-29)

新約
 「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろ他国の言葉で語り出した。」  (使徒行伝2:1-4)

  聖霊について考える場合、二つの面があります。一つは教理的面、「聖霊は、私たちを有効的にキリストに結ぶ帯である」(カルヴァン)、つまり「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると言うことができない」(Ⅰコリント12:3)と表されているように、私たちにキリストを認識させるのが、聖霊であるということです。しかし、聖霊にはもう一つの面、体験としての聖霊があります。聖霊が分からない人には、「祈りなさい、そうすれば聖霊は与えられます」と言います。お金はいらない、難しい理論もいらない、ただ祈るだけでよいなら簡単です。だれでも祈るなら与えられるのです。

  では聖霊は、神さまが発信される電波のようなものでしょうか。確かに聖霊は、父なる神から発出されるものです。けれども、ただ電波のような神さまの通信手段ではありません。聖霊は、その発出する神さまご自身でもあります。それでは神さまが、ご自身で発出する聖霊となって、私たちのところへ出かけてくるのでしょうか。ある意味ではそうです。しかし、単に発出される電波ではありません。聖霊を受ける時、神ご自身が現臨するのです。したがって聖霊をいただく時、キリストが共に私の中にいまし、私はキリストのことが分かるのです。

  今日の聖書では「わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ」と。そこには、神はその霊をすべての人間に注ぐとあります。あなたも例外ではありません。「すべて」です。使徒行伝には「みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」。ここでは特に「舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」ことが強調されています。聖霊の降臨はすべての人に対してでも、決して十把一からげではありません。「ひとりびとり」が重んじられています。ひとりびとりの信仰が大切にされます。

  しかも「あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。」と、年齢に関係ありません。聖霊を受けるには歳をとりすぎたとか、聖霊を受けるには、まだ若いことはありません。次に「あなたがたのむすこ、娘は預言をし」と、男女の差もありません。この世のことには、男性のみとか、反対に女性のみにできることとかがあります。しかし、聖霊には男女の制限もありません。聖霊はまさに男女平等です。さらに「その日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ」とあります。「しもべ、はしため」とは、世間では軽蔑され、下に追いやられたい人びとです。つまり聖霊は、この世の階級も越えています。すると聖霊は年齢・性別・階級も越えて働きます。私たちの社会には、たとえば会社には上の人と下の人、正規の社員や契約社員とか、いろいろの差別があります。学校には知識や理解力に応じて、段階の差別があります。しかし、聖霊には、このような差別は一切ありません。

  「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろ他国の言葉で語り出した」。最後に聖霊は言語と関係があります。私たちは聖霊というと、感情や感覚にのみ訴えるもので、言語とは関係ないかに思うでしょう。しかし、聖霊もまた言語と関係があるのです。「私は聖霊を受けた、聖霊体験がある」と言う人に、「その体験はどういうものか」と聞いても、「曰く、言い難し」では、どうにもなりません。聖霊は言葉を語り出します。しかも、いろいろな国言葉で語ったのに、みな自分の故郷の言葉のように感じたというのです。

  ユーゴーという国に、戦争中アメリカの軍隊が入ってきました。数名のアメリカ兵が近づいてきた時、ユーゴーの人たちは、「アーメン、アーメン」と、私たちが祈りの最後にいう言葉を繰り返しました。「アーメン」という言葉は、もとはヘブル語です。「真実」とか「まことに」という意味です。それはギリシア語に移され、さらに英語、ドイツ語、などにも用いられ、世界共通語となりました。それでアメリカ兵は、「アーメン、アーメン」という言葉を聞いて、この人たちはクリスチャンなのだと分かりました。そして友好的に扱ってくれたということです。この小さな出来事は、キリスト者は「アーメン」という共通語をもっていることを表しています。さらにその意味が、「真実」ですから、「真実」こそは、世界共通語であるというように理解を拡大することもできます。今聖霊が語らせる言葉を皆自分の言葉として理解することができたということは、聖霊は信仰(真実)という世界に共通の言葉を語らせるという意味ともとれます。聖霊を受ける時、私たちの心は互いに通じるのです。
   


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