6月2日(日)「信仰義認」説教要旨

           聖句
旧約
 「主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」  (創世記15:5-6)

新約
 「このようなわけで、すべては信仰によるのである。 それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」  (ローマ4:16-18)

  「信仰によって義とされる」ことは、私たちの「信じる」という行為によって義とされるのではありません。もしそうなら「信仰」は律法の一つになります。「信仰によって義とされる」のは、パウロによれば、「神の義が、律法とは別に現された。それはキリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」となります。「信仰によって義とされる」のは、実は、「キリストのあがない」、「十字架のあがない」によって義とされることなのです。「信仰による義」は、私たちの救いの主観的根拠であり、「キリストのあがない」は、その客観的根拠であります。

  私たちの信仰は、仏教などと違って歴史的です。神は世界を創造し、歴史を造り、この歴史の中で行動なさいます。その頂点は、イエス・キリストが贈られ、私たちの救い主として生まれたことです。この救い主の歴史が取りも直さず、私たちの救いの歴史であります。つまり私たちの救いの客観的面です。しかし、そこにイエス・キリストがいらしたというだけでは、私の救いにはなりません。その客観的事実を受け入れ、信じる信仰がなければ、つまり、その主観的面がなければ、客観的事実は働きません。

  信仰義認とは、この主観的面です。そこにはイエス・キリストの客観的面が前提としてあります。こう言ったらどうでしょう、「皆さん、私たちはみな罪人です。しかし、神はこの罪人を救おうとして、御子イエス・キリストを遣わされました。あなたはこの事実を信じますか、受け入れますか」。今、あなたは自分自身が判断して、「はい、私は信じます」と言い受け入れなくてはなりません。それが信仰であり、この客観的事実イエス・キリストの十字架と、この信仰という主観的事実があいまって初めて、そこに救済という出来事が起こります。それは事実、あなた、私の中に起こるのです。それは十字架の事実プラス私の受け入れる信仰です。

  十字架+信仰=救いの事実(信仰義認)であります。

  さてそのプラスのところに何事か起こります。それは聖霊の出来事にほかなりません。信仰は、私たちのすることですが、義認は、私たちのすることではありません。義としてくださるのは、神さまです。すでに信仰義認という言葉の中に、私たちの主観的業と神の客観的業との二つが現れています。ではこの二つには、どのような関係があるのでしょうか。 まずどっちが先でしょうか、もちろんイエス・キリストの十字架が先に決まっています。キリストの十字架が先ということは、ただ時間的に先というのではありません。ただ時間的に先だけでなく、むしろ優越的な超越をも表しています。「十字架が先」とは、私たちの罪にはるかに優越的に凌駕した圧倒的恵みの力が注がれたという意味であります。私たちの信仰が、十字架の恵みに圧倒され、覆われ、ただただ恵み、恵みにあふれて、私たちはこの恵みの洪水の中で生きるのです。したがって、信仰よりも義認が、圧倒的に強くあります。私たちの信仰が本当に小さくても、いいのです。イエスは言われました、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」と。それは恵みの圧倒的大きさと強さを表しています。
   


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