6月9日(日)「神と富」説教要旨

           聖句
旧約
 「自分の富を頼むものは衰える。正しい者は木の青葉のように栄える。」  (箴言11:28)

新約
 「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は、大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったなら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったなら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」  (ルカ16:8-13)

  ここに出てくるのは、主人の財産をちょろまかしている家令の話です。しかも、それが見つかって解雇されるまでの短い時間を有効に使って、主人の負債者にその負債を負けてやることです。それ事態、不正なやり方ですが、今、(主人である)神様は、その不正なやり方をほめています。家令の不正なやり方には、その熱心さと、巧みさという点において、信仰者に模範となることがあるからです。ここで「不正な富(小事)」=この世の事、「真の富(大事)」=神の国、信仰上の事です。この世のこと(不正な富)に忠実でない人は、神の国のこと(信仰上のこと)にも忠実でありません。私たち信仰者は、とかくこの世のことを、「世俗だ」と軽視します。しかし、信仰は、世俗のことから抽象されて、空中に浮かんでいることでしょうか。違います。信仰と言っても、この世の中で起こります。信仰の人と言って、この世のことに超然としている人がいます。それは本当の信仰ではありません。真の信仰は、地上のことに(小事に)忠実です。そうでなければ、大事(神の国のこと、信仰上のこと)は任せられません。

  ここでは主人(神さま)から、一切のことを任せられている執事(マネージャー)が出てきます。このマネージャーは取りも直さず、神に一切を任せられている、私たち信仰者です。会計報告の時が来て、現金と帳簿とがあいません。このマネージャーは、主人の財産を着服していたのですから。主人は、そのことを見ぬいて、会計報告を出せと言います。では私たちの信仰生活は、信仰と行為の帳尻があっているでしょうか。私たちの帳尻はあいません。つまり私たちは信仰の二重生活をしています。言っていることはクリスチャンとして立派でも、実際はどうでしょう。その割にたいしたことがありません。

  さてこの不正な執事がしたことは、何でしょうか。自分がやめさせられた後のことを工作しました。つまり、主人の負債者の負債をまけてやること、つまり帳簿をごまかして、少なく記載してやることです。そうしておけば恩恵をこうむった負債者たちは、この執事を、自分の家に迎えてくれるだろうというのです。確かに自分に都合のよい考え方かも知れません。しかし、主人は、神様は、このマネージャーの不正なやり方をほめました。イエスはここで言われました、「不正の富からでも、自分のために友をつくりなさい。そうしたら富がなくなった時、その友人が自分の住まいに迎えてくれるでしょう。最も小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実です。反対に最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です」。ですからもしあなたがたが、不正の富(この世の事)に忠実でなかったら、誰があなたがたに真の富(神の国の事)を任せるでしょうか。

  ここでは「信仰と行為」の帳尻を無理にあわせることに関心があるではありません。聖書は、不思議なくらい、この帳尻あわせには関心を示していません。それは倫理道徳のやることです。福音や信仰の課題ではありません。皆さん、この不正な世の中で、信仰と行為の帳尻をあわせることに戦々恐々としているなら、それはキリストの御心にそわない、単なるパリサイ人に過ぎません。ではその正反対、進んで悪いことばかりするのでしょうか。違います。この世の不正の富を用いて、自分のために友をつくるのです。その材料はこの世の不正の富です。地上の物質やお金です。しかし、それを用いて作り出すものは、「友だちをつくる」、すなわち「神の愛」を実践することです。あなたが作るのは信仰の作品なのです。

  ちょうど泥沼に美しい蓮の花が咲くように、私たちが「世俗」と呼んでいることの中に信仰の事柄があるのです。私たちは「信仰の事」と「この世の事」ときっぱり分ける二元論になっていないでしょうか。皆さん、「人は二人の主にかね仕えることはできません」。神と富とに同時に仕えることはできません。しかし、間違わないでください、信仰に求められるのは、この世から逃げ出すことではありません。なるべくこの世のものから避けて、距離をおくことでもありません。信仰者は、この世のものを用いて信仰の作品を作るのです。今ある小さなこと、それに全力を注ぎなさい。 
   


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