2013年6月16日(日)春の伝道集会説教「信仰とは何でしょうか」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」  (箴言16:1-3)

新約
 「ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、『湖の向こう岸へ渡ろう』と言われたので、一同が船出した。渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、『先生、先生、わたしたちは死にそうです』と言った。イエスは起き上がって、風と荒波とをおしかりになると、止んでなぎになった。イエスは彼らに言われた、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。彼らは恐れ驚いて互いに言い合った、『いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは』。」  (ルカ8:22-25)

  キルケゴールという人は、「不安」と「恐怖」とは違うと言いました。「恐怖」と言うのは、実際に恐るべき対象があって、それをこわがることです。たとえば北朝鮮が異常に武装してきたら、それは恐怖でしょう。しかし、今人びとが感じている「不安」は確とした対象がない、漠然とした世の中に対する不安の感情です。それはどこから来るかというと、人間が「不完全で相対的なもの」だからです。とすれば人間であることが、絶対者でなく相対的な存在であることが、その根本的原因です。たとえば人間は死ぬ存在です。すべてのこと完璧にはできません。とすれば「漠然とした不安がある」ということが、とりもなおさず人間としての特質ではないでしょうか。

  しかし、時たまそのような漠とした不安が具体的に現れることがあります。一つは地震でも竜巻でも自然の脅威です。また政治的暴力などです。しかし、そういう中で心配しないで生活できるのは、よく言われるように、「後になって考えると何事も心配しなくてよかった。不思議と導かれている」ということです。これを今日の聖句にあてはめれば、「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計ることは必ず成る」となります。別な言葉で言うと、「スイスは人間の混乱と神の摂理によって導かれている」となります。人間の混乱と見えるところに、不思議と神さまのご摂理が働いて、うまく導かれる。またローマ書には、「神を愛する者には、すべてのことが相働いて益となる」とあります。最後に益を与えるもの、それは「復活」信仰かも知れません。復活とは、死という究極的不安さえも、勝利に変えてしまうのですから。

  親鸞は、「たとい法然聖人にすかされまいらせて地獄におちても、後悔はない」と言いました。「彼を信じた、しかし、だまされたから、もう信じない」というのは、本当の「信」の姿ではない、むしろ、「私は彼を信じた、しかし、だまされた、にもかかわらず、なお彼を信じる」というのが、本当の信頼の姿であるというのです。つまり事柄によらず、その人そのものに信頼をおいている姿であります。疑いを越えて信じる,信仰とはそこまで落ち切る必要があります。

  弟子たちは今、湖を舟で、それも小さな小舟で渡って行きます。「渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、『先生、先生、わたしたちは死にそうです』と言った」。イエスは、なぜ信仰がないのかとしかりました。眠っているイエスを越えて信じなくてはなりません。「スイスは人間の混乱と神の摂理によって導かれている」。パウロは病弱で、伝道旅行の途次、たびたび倒れます。彼は祈ります。それもたびたびこの病をいやしてくださいと。しかし、主の御声はいいます。「私の力は弱いところに完全に現れる。私は弱い時にこそ強いからだ」と。パウロはこうして弱い病弱のただ中で、神の力をいただきました。それが信仰であります。混乱の中で神の摂理を信じる、病弱の中で強い力を信じる、これが本当の信仰です。

  さてここで弟子たちは、イエスに、「先生、私たちは死にそうです」と言っています。それは湖の嵐が突風が起こって、それも予期せずに突然起こってきます。私たちの恐れは、「予期せずに」というところにあります。どんなことでもあらかじめ予期できていることなら、信仰を失ったりしません。しかし、人生は「予期しない」ことが起こるのです。そこに起こるのは、私たちの側では「混乱」です。そこで終われば、単に湖で起こった嵐の出来事に過ぎません、しかし、その「混乱」には続きがあるのです。その混乱の次にくる継続、それが信仰であります。ではその混乱に継続する「信仰」はどこから来るのでしょうか。私たちから来ません。なぜなら私たちは、驚きあわて、恐れて腰を抜かして混乱しているのですから。もし混乱に信仰が続くとしたら、それは上から、神からです。それで「スイスは人間の混乱と神の摂理によって導かれている」と言われるのです。
   


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