|
|
|
|
|
|
|
|
7月7日(日)「天にいます父」説教要旨
  聖句
旧約 「わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもし彼を捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう。それであなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい。」  (歴代志上28:9-10)
新約 「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」  (マタイ6:9-13)
 主の祈りで、イエスが言われた呼びかけは「天にいますわたしたちの父」です。「わたしの父」ではありません。ここには個人主義の祈りではなく、協同性があります。神さまを自分で独り占めにするような、祈りのエゴイズムを、イエスはおゆるしになりません。「父よ」と祈る時、その父の子供として、兄弟が姉妹がいるはずです。個人的ではなく、隣人が共にいるのです。兄弟姉妹のいない祈りは、本当の祈りではありません。「わたしたちの父」と祈る時、イエス・キリストが御子として、わたしたちの祈りの中に入ってきて、「兄弟」となってくださるのです。そして「この大祭司キリストは、わたしたちの弱さを思いやることのできないかたではありません」(ヘブル4:15)。イエスは、わたしたちと共に、この祈りを祈ってくださるのです。
 父とはここでは、文字通り、私たちを守り、育て、養ってくださる、暖かいお父さまにほかなりません。そして同時にこのお方は全能の父であります。「お父さん」と呼びなさいということは、「わたしが全能の父であるのに、あなたはどこかほかのところに求めてはいないか」、「わたしに求めよ」、「わが顔をたずね求めよ」(詩編27:8)。こう言われるのです。天にいましても、父はまことの父ですから、その距離は不信仰者には無限に遠くあっても、信じる者には驚くほど近いのです。いや「あなたがたのうち二人が、どんな願い事についても地上で心をあわせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人または三人が、わたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:19)。
 天においていと高きにいます神は、この地上では最も低いところにおられます。この地上の弱さの中に神を見いだした人は、幸いです。その人は、実に弱さの中で強い神を見いだしたからです。ですから自分の弱さをかこってはなりません。この弱さのところにいます神を見いださなくては、信仰は何になりましょう。このように私たちは祈る時、いつもキリストを兄弟としてそばにもつのです。父なる神だけでなく、御子なるキリストをそばにもたない祈りは弱く、すこしでも聞かれないと、すぐ祈りをやめてしまうでしょう。
 次に「父よ」と祈る時、「子供がパンを求めるのに、石を与える親がいるでしょうか、天にいますあなたがたの父は、なおさら求めてくる者に、良いものをくださらないことがあるでしょうか」(マタイ7:9-11)、この点に注目しましょう。ところがこのように暖かくやさしい父に祈りながら、私たちは心の奥底に、「仕方がない、なるようにしかならない」といった一種の宿命観をやどしていないでしょうか。日本人の信仰者は、わりと不思議に、「信仰者的宿命観」(?)のようなものをもっているのです。信仰者的宿命観というのはこうです。「すべては神さまのみ旨のままにしかならない。だから神さまのみ旨なら仕方がない、争ってもしょうがない」。このような人は、神さまが出てきますが、その最後は「祈り求め」でなく、「仕方がない」という、おかしな宿命観をもつのです。ふつう、祈りの人と宿命観とは、全く相いれないはずです。しかし、おかしなことに現実には起こるのです。それはその信仰が本物でない証拠です。
 イエスは言われました、「すべて祈ってねがうことは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば与えられます」(マルコ11:24)。また「あなたがたのうち二人が、どんな願い事についても地上で心をあわせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人または三人が、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われました。実にイエス・キリストが、私たちの真ん中にいますのです。私たちはこのような、「私たちの真ん中にいます神」を信じているでしょうか。そのように「信じて祈っている」でしょうか。預言者イザヤは言いました、「主の手が短くて、救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのではない。ただあなたがたのよこしまな業が、あなたがたとあなたがたの神との間をへだてたのである。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのである」(イザヤ59:1-2)と。
|
|
|
Copyright(c)2013 Setagaya Chitose-Church
All rights Reserved.
|
|