2013年7月14日(日)主の祈り連続説教-2「神の御名」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「その日には、寒さも霜もない。そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮れになっても、光があるからである。その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。」  (ゼカリヤ14:6-9)

新約
 「あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」  (使徒行伝4:10-12)

  「神の御名」とは何でしょうか。旧約聖書では、神の名は「ヤハウエ」、そのことは出エジプト記の3章14節に記されています。「彼らがその名は何というのですかとわたしに聞くならば、何と答えましょうか、すると神はモーセに言われた『わたしは有って有る者』」。このあるは「なる」の意味もあります。それがヘブル語の特徴です。ですから、この神の名は、「わたしは成らんとする者に成る者」と訳すこともできます。つまり聖書の言葉は動的です。したがって、聖書の神は動的です。別な言葉で言えば、「歴史的」です。ふつう神さまというと天上に高く鎮座なしますと考え、地上にいます神は考えません。しかし、イエス・キリストの父なる神は違います。天においては高きにいまし、この地上ではいと低きにいます神であります。したがって、私たちの地上にいる人間のための神であります。私たち人間と同じ姿をして来た神であります。

  ヘブル書にはこうあります。「わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」。このお方の名がイエス・キリストであることは、私たちが祈りの最後に「イエス・キリストの名によってお聞き上げください」という時、その昔、ペテロが「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と美しの門のところで、足の悪い物乞いに言われた時、そのお方の力が現れたのです。弟子たちは、この名を中心に生きていました。私たちはイエス・キリストそのものを心から信じて生きているのでしょうか。それとも「永遠」とか、「愛」とか、「絶対」とか言った観念でしょうか。イエス・キリストのご臨済そのものを信じているのでしょうか。何か神からくる贈り物を信じているのでしょうか。奥さんが旦那さんの買ってくれる高いダイヤを大切にし贈ってくれた夫自身を忘れたらおかしいでしょう。それと同じようにイエス・キリストとその父の御名なしに、ただ神の愛とか恵みの賜物を愛していないでしょうか。この時、神という生ける人格でなく、神さまからの贈り物を愛していることになります。それは偶像礼拝です。私たちも祈ることは大切ですが、祈りによって得る物が第一だとすると、それは物質礼拝です。その時、思い起こしてください。「願わくは、御名をあがめさせてください」。皆さん、祈る時、御名でなく、物が中心になっていませんか。
   


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