2013年7月28日(日)主の祈り連続説教-4「神の御心」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、『あなたはメルキゼデク(「わたしの正しい王」)の位にしたがってとこしえに祭司である』。主はあなたの右におられて、その怒りの日に王たちを打ち破られる。主はもろもろの国のなかでさばきを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる。」  (詩編110:4-6)

新約
 「その時パウロは答えた、『あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ』。こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは、『主のみこころが行われますように』と言っただけで、それ以上,何も言わなかった。」  (使徒行伝21:13-14)

  主の祈りの第三の祈りは、「あなたの意志が天に行われるとおり、地にも行われますように」であります。ここで二つのことが考えられます。一つは、「神の御心」ということです。別な言葉で表せば、「神のご意志」であります。よく「神の御旨」とも言います。そこには、このわたしたちの意志のほかに、神のご意志というものがあることです。第二にそのご意志は天では行われているが、このわたしたちの住む地上では必ずしも行われていないということです。さらに言えば、しかし、そのご意志は、私たちの祈りを通して行われるのうになるということです。

  イエスは、「み心ならば、わたしをきよくしていただけるのですが」と言った癩病の人に、「わが心である、きよくなれ」と言われました(マルコ1:40-41)。そのイエス自身、十字架を前にした時、ゲッセマネで祈りました、「どうかこの苦い杯をわたしから取り去ってください」、「しかし、わたしの心ではなく、み心のままになさってください」と祈りました。自分の意志としては、十字架を受けないで、もっと楽な道を歩ませてくれるならと思いました。しかし、もしイエスの心のままが成り立ったなら、イエスは十字架を受けずにすんだでしょうが、人類の救いはどうなったでしょうか。イエスは救われて、人類は救われないことになります。それは、神のみ心ではありません。なぜなら、神はその御子よりも、人類のいのちを救おうとなさいます。それゆえイエス個人の意志がなるよりも、神は神の人類救いのご意志を優先させます。

  なぜなら神は愛であるからです。愛は神の本質です。したがって人類を救うことは、人類を創造して以来、神のみ心であります。「み心が地に行われる」とは、神の愛のご意志が貫徹されることにほかなりません。つまり第三の祈り「み心が天に行われる通り、地にも行わせてください」という祈りは、神の愛のご意志を求めている祈りであります。先ほどの癩病の人は、病が愛なる神のみ心でないことを知っていました。しかし、パウロの場合はどうでしょう。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの恵みは弱いところに完全に表れる」、その場合、病のいえるいえないを越えて、神の恵み、神の愛が問題になっているのです。今ある現象としての病、健康を越えて、恵みの働きがあります。人びとは自分中心になって自分一個の利益を中心に考えます。しかし、人生には病を通して神の恵み、神の愛が働く場合があるのです。その時、何を優先させるか、神こそが中心でなくてはなりません。私たちは、とかく自分の利益に捕らわれて、神の真理が見えなくなることがあります。それを御利益主義と申します。パウロは初め、自分の利益に捕らわれ、病の癒えることが優先しました。人間はそのことが大切と思い込むと、もうそれにのみ捕らわれて、ほかの真理がわからなくなってしまいます。しかし、自分の希望である「病のいやし」ということが、行われない、そのことによって、もっと上のこと、神の恵みが表れるとしたらどうでしょう。「恵み」は、[病、健康」その他、人間の利益に優先します。

  ある時、宣教師のベイントン師は、重い病気になりました。信徒がお見舞いにたずねてきた時、ベイントン師は聞きました。「神さまは、どうして時たまこのような重い病気にさせるのでしょうか」。信徒が何と答えてよいか、分からずにいると、先生は静かに言いました、「それはね、私たちが時々上を向くためですよ」。私たちは丈夫な時、自分の利益中心で走り回っています。その時、決して上を向きません、下かせいぜい横を向いて忙しくしています。その時、私たちに忘れているものがあります。それは「上」です、「神さま」です。そこには 1) 私たちの忘れていたものがあります。 2) それは最も根源的で創造的なものです。3) 恵みと愛に満ちています。4) しかも全能です。

  私たちはいつも何かがないと、地上の手段を考えます、それで得られることもあります。しかし、本当に困難な時は、それで得られません。その時、神は私たちの心を試しておられます。「あなたがたが会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられない試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである。」(Ⅰコリント10:13)
   


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